藤井聡:巫山戯(ふざけ)ず真面目に「道州制・地方主権」を疑うべし

アイデンティティ 2012年7月号

巫山戯(ふざけ)ず真面目に「道州制・地方主権」を疑うべし


京都大学大学院教授・同大学レジリエンス研究ユニット長 藤井聡


道州制・地方主権に対する漠とした期待 

多くの国民は、「道州制」というものに対して、どことなくポジティブな「イメージ」を持っているやに見受けられる。もちろん多くの国民は、それが具体的にどういうものなのかを正確には把握していないだろう。しかし、我が国日本のこの閉塞状況を打破する可能性を秘めているものとして何となく期待しているように思われる。

「地方主権」という言葉に対しても同様の状況だ。その具体的な内容については必ずしも的確には把握しているわけではないものの、とりあえず、疲弊した地域社会を蘇らせるかもしれない改革の一つとして、漠然とした期待を持っているように思われる。

つまり多くの国民は、道州制や地方主権というものに対して「何か分からんが、まぁ、いいものだろう」というポジティブなイメージを持っているのである。そして中には、そうした曖昧なイメージしか無いにも拘わらず、どこかで聞きかじったいくつかのロジックを真に受けて「これからの時代は、地方主権!」とか「道州制にかえないともう、今の日本の現状は打破できない!」とか声高に主張してしまう方々が多数おられるようだ。実際、例えば筆者の身の回りにもそういう方は(年配の方を中心として)多数見受けられる。


「みんな」が間違えてきた 

こうした世間の「空気」を読み取った多くの政党は、道州制や地方主権を、政権公約として掲げるに至っている。「大阪維新の会」はその典型であるが、民主党やみんなの党といった革新政党は皆そろって道州制、地方主権に賛成だ。そして、保守政党である自民党も公約に道州制を掲げている。

民主主義というのは、文字通り「みんな」が肯定的に捉えているものを実現していくという側面を持つものだから、道州制・地方主権を各政党が公約に掲げるというのも、理解できなくはない。

しかし、「みんな」が間違うことなんていくらでもある。

筆者は必ずしも同意してはいないが、例えば現在の世論、つまり「みんな」は、「戦前の日本の世論は戦争肯定だった。つまりあの時は“みんな”間違えたんだ」と思っている。つまり、今の「みんな」は、「みんなが間違う事がある」ということを、知識として知っているわけだ。

もちろん、今の「みんな」は「もう僕たちは、戦前の僕たちじゃない。あの時と、今とじゃ全然違う」と反論するだろうが、残念ながら、その反論は完全に間違えている。

例えば、09年夏の民主党政権が誕生した総選挙の時、「みんな」は民主党を徹底的に応援した。しかし今となっては「民主党に期待したけどやっぱりダメだった」と「みんな」言っている。

さらに言うなら、郵政改革で、いまやもう、郵便関連サービスのサービス水準は地に落ちてしまった。紙面の都合上詳しく述べることは避けるが、例えば東谷暁氏の様々なレポートに触れれば、理性ある者ならばおおよそ、その郵政改革が「失敗」であったことを認めることだろう。しかし、かの「郵政解散」と呼ばれた総選挙で、「みんな」は、郵政改革を主張する小泉首相を熱狂的に応援したではないか。

つまり、平成の御代の「みんな」はこれまで、小泉改革の時も民主党の政権交代選挙の時も「間違って」きたのだ。

なぜ間違えたのかと言えば、「郵政改革ってなんだかわからないけど、何となくいいことなんだろ」とか「政権交代をして何がどうなるのかよく分からんが、まぁ、政権交代した方がいいんだろ」と「みんな」が漠然とした期待を持って、よく考えずにイメージだけで、選挙という国家の命運を決定づけるいわば神聖なる行為に巫山戯(ふざけ)ながら参加してしまったからだ。

要は、巫山戯てはならない選挙で巫山戯た結果、「みんな」が間違えたのだ。


「道州制・地方主権」をなぜやってはならないのか 

それを思えば、「道州制・地方主権」に対して、「みんな」が善いイメージを持っていたとしても、そんなイメージは、真面目に考えれば完全なる間違いであるという可能性は、十二分に考えられるのだ。

では、「道州制・地方主権」は、どう間違えているのかを、真面目に考えてみよう。

第一に、今回の東日本大震災がその典型であるが、今日本にまさに襲いかからんとしている巨大災害は、個々の自治体や道州政府のレベルを完全に超えた規模になる。そうした規模の災害に対しては、今回の大震災に対する対応がまさにそうであった様に、国家組織である自衛隊に加えて、「地方整備局」の組織力が不可欠だ。しかし、道州制になれば、地方整備局が解体されることとなっている。それでは巨大地震に対応できず、見殺しにされる被災者が続出することとなるだろう。その証拠に、整備局解体を含めた(九州、関西等の)「広域連合」の権限強化の動きに、実に全国の400以上もの市町村長が明確に反対を表明しているのだ。つまり現場を知る者の生の声では、整備局解体などは、論外、以外の何物でもないのだ。

第二に、公的事業のための財源調達において公債は極めて重要な意味を持つ。この時、同州政府に財源が移管されていれば、地方債を発行せざるを得なくなる。しかし地方債は国債と違い、最終的に中央銀行による買い支えが期待できない。その結果、大規模な公債発行が不可能となり、各種事業が大きく停滞することとなるだろう。その上、中央銀行の後ろ盾が無い以上、地方債では「夕張」の様に破綻するリスクが格段に高くなってしまうのだ。

第三に、道州制に移行するとはつまり、都道府県が無くなるということだ。おそらく、多くの国民はそれをリアルには理解していないのではないか。都道府県が無くなれば、奈良県民、鹿児島県民、福島県民といった「アイデンティティ」が急速に崩壊していくことは間違いない。つまり道州制への移行は行政システムの形だけに影響を及ぼすのではなく、自分は何物かという人間の根幹にも関わる問題なのだ。一度「自分の都府県が無くなる」、という事を、全国民が少しは真面目に考えてはどうだろうか。

以上以外にも、1)地方政府の権限が強くなれば、複数の地方政府を貫通する道路や河川の適切な管理や計画が不能となっていく、2)様々な権限を地方政府に移管しても、それに対応した歴史がない地方政府では、俄に対応できるようになるとは考えられず、どれだけ楽観的に考えても、郵政民営化がそうであったように、当面の間ありとあらゆる行政上の混乱が噴出することは不可避である、3)これだけ国力が疲弊している中で、世界恐慌や巨大地震、デフレなどの国家レベルの様々な危機への対応に差し向けるべき、その限られた国力を「自己改革」なるものに費やしてしまえば、我が国の危機はさらに深刻化する、4)都府県境が無くなれば「州都」への一極集中が進行し、地方の疲弊はさらに深刻化する、5)財源を地方分権化し、交付税交付金を縮小・廃止すれば、人口の少ない州政府の行政能力が相対的に大きく凋落し、地方部と都市部の格差は、その是正が著しく困難となると同時に、さらに拡大していくことは必至である、といった様々な問題が指摘できるところである。

そして何より、政治哲学的に最も許し難いのは、その言葉使いの誤りである。

そもそも「地方主権」というが、一般に「主権」とは、自主独立して、何者にも支配されず、自身で全てを判断することができる権限を言う。だからそれを持つには、通常は軍隊や中央銀行が必要なのだ。しかし、それだけの覚悟を持って地方主権を唱えている人々がどれだけいるのだろうか。いわば、軍隊も中央銀行も持たないクセに「主権だ主権だ」と地方政府が口にするという姿は、親の庇護で生きている中学生が「俺は独立だ、何でも俺が決めるんだ」と、児童公園の中で叫んでいる様なものだ。全くもって、愚かしい姿である。


巫山戯ず真面目に状況を理解すべし 

この様に、少しでも真面目に考えれば、「地方主権」「道州制」なるものは論ずるに値するまでもない程の愚かしい代物にしか過ぎないのである。

無論、現状の地方と都市の行政の調整がパーフェクトであるはずもない。現場にはありとあらゆる問題があることは事実だ。

しかしだからといって、一足飛びに主権だの道州制だのという極端な議論をするのは、一昔前の少女漫画好きの女子高生が白馬に乗った王子様を夢想する程度の「巫山戯た戯れ言」にしか過ぎないのである。真っ当な大人は、この娑婆の中のあらゆる問題を諦念の眼で見据えながらも、それでもなお諦めない情熱を持ち、一つずつ可能な改善を図らんと「真面目」に努力するものなのだ。

もういい加減、日本人は巫山戯るのをやめ、真面目に状況改善に取り組まねばならない。

これまでは、どれだけ巫山戯ていても、先人が残した莫大な歴史的財産と、状況的幸運のおかげで、何とか生きさらばえることができたのかもしれない。しかし、もうここまで国力が棄損し、世界各国の状況が第二次大戦前夜の様な混沌とした状況になった今日、これ以上巫山戯ていては、このみずほの国の歴史そのものが早晩終焉することは避けられないだろう。

だからこそ、筆者は、一人でも多くの国民が、この現状の危機を過不足無く腹の底から理解し、真面目に生きていく事を祈りたいのである。さもなければ、近い将来にこの国は地方主権型道州制なるものを本当に導入し、ますます国家としての死期を早めるだけの蛮行に国民総出でせっせと勤しむことになってしまうに違いのだ。

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