京都大学 都市社会工学専攻藤井研究室

京都大学大学院工学研究科 都市社会工学専攻
交通マネジメント工学講座 交通行動システム分野

藤井聡:「災害とみちづくり」と大衆世論

道路建設, No. 722 (7), pp. 9-12, 2012.

 

「災害とみちづくり」と大衆世論 

 

京都大学大学院教授・同大学レジリエンス研究ユニット長 藤井聡

 

今日の「みちづくり」をめぐる大衆世論は極めて厳しい。それは、どれだけみちづくりが国民の利益に不可欠であっても、それを阻止してしまわんばかりの力を持っている。しかし来るべき大災害によって死するであろう人々を一人でも多く助けるためには、その大衆世論を乗り越えなければならない───本稿はこうした実情を描写したい。 

 

「みちづくり」に対するマスコミ世論のイメージ 

今の世論状況では、例えば一般的なマスメディアの中で「みちづくり」と言うだけで「袋だたき」にあってしまう。曰く、

「また、公共事業に群がるシロアリに餌をやりたいのか?」

「これ以上つくったって、維持管理費用が増えていくだけじゃないか。借金まみれになったのは、無責任に道路を造り続けたツケじゃないか?もうこれ以上道路をつくるなんてやめろ!」

「道路なんて結局、政治家が票が欲しいからやってるだけじゃないか。全部利権のためだけにやってんだろ?必要だ必要だなんていって、どうせ、また、新しい利権が欲しいだけじゃないのか?」

───とか言う意見が、巷を覆い尽くしている。

とはいえ、事情をよく知る国民各位なら皆理解しておられように、これらはいずれも、悪質なデマである疑義が濃厚だ。

 

「天下り」問題 

第一にそもそも、天下りというシステムは、民間の側が、それを強く望んでいるという現状があることを忘れてはならない。無論、業者側からしてみれば、それは「福袋」の様なもので、袋を空ければ、役所で使い物にならなくなったと言われても仕方の無いような人材がやって来た、ということもあるだろうが、業者側はそれを百も承知で引き受けているのだ。なぜかといえば、業界の人間なら誰もが理解しているように、キャリア官僚は、「平均」として極めて優秀かつ有用な人材であり、自社に給料以上のメリットを「平均」としてもたらすであろうと大いに「見込んで」いることは間違いないからだ(ただし、しつこいようだが、これは「平均」の話であることを失念しないでいただきたい。そもそも“福袋”とはそういうものなのだ)。

第二に、「天下り」と呼ばれる事象そのものを本当に根絶するためは、役所における人事システムを大きく改変することが必要になる。天下りを無くすということはすなわち、(天下りとなる)一部の役人を「解雇」するか「雇い続ける」かの選択をしなければならないと言うことを意味する。前者を容易に行う様にするということはこれまでの公務員の雇用形態を一変させる大改変が必要であるから、その「合理性」を明らかにする事が不可欠だ。しかし、少なくとも筆者には、そんな改変に十分な合理性が宿るとは(紙面の都合からその詳細の議論を割愛するが)考えがたい。一方、後者の「雇い続ける」という判断は「大きな政府」を意味する。筆者はそれはそれで結構な事だと考えるが、「天下りを無くす」ために「役所を大きくする」という判断が、大きな世論的支持を受けるとは考えがたい。これらを含めて合理的に考えれば、現状の天下りシステムは、それなりの合理性を持つものである可能性が浮かび上がるのである。

 

政府の財政問題 

一方、大手メディアは昨今、ようやく「インフラの維持管理が必要だ」という事実を認め始めてはいるものの、彼等は「だから、これ以上維持管理費が膨らまないように、もう作るな」という論陣を張ることが増えてきたようだが、それもオカシナ話だ。もしそれが必要なものなら、維持管理費がかかろうがどうしようが、作るべきであるのは当然ではないか。維持管理の必要性の有無は、道路をつくるかどうかを検討するにあたっての一つの要因にはなるだろうが、唯一無二の理由になどはなり得ない。

しかも、日本政府の借金は、今や道路整備が原因なのではなく、社会保障費の増加が原因であるのは明白だ。

しかもしかも、日本政府の借金は、デフレの今、多くの国民が不安に感じている程に深刻な問題などではない。そもそも、日本の国債の95%は国民が持っている。つまり、国民が政府に貸し付けているのだ。逆に言うと、政府は、我々の所得の一部を「預かっている」だけなのだ(正確に言えば、我々の所得の中から銀行に預金されたものの一部を、政府が預かっている形となっている)。政府が、国民に「その預かったお金」を返さないということは、現実的に考えられない。日本政府は、「民間銀行」が倒産した時にもその預金を保障しようとする程の存在だという事を、国民は忘れたのだろうか。そんな存在が、国民から直接借りているカネを踏み倒すようなことがあるとは到底考えられないではないか。だから事実、金融市場では、10年以上もの長期にわたって、日本国債は世界有数の大人気商品になっているのだ。

つまり、そんなこんなを考慮するなら、「道路を造っても借金が増えるだけで、困ったことになるんだから道路をつくるべきでない!」という言説は、何重もの意味で間違った「デマ」にしか過ぎないのである。

 

利権誘導問題

最後に、「道路なんて結局、政治家が票が欲しいからやってるだけだ」という言説について言えば、それ「だけ」が道路整備の原因となっているケースが数多くあるなぞということは、現実的には到底考えられない。つまり「票集め」以外の合理的理由が一切ないにも拘わらず、道路を造るなどというような行政判断が下されるということは、ほとんど常識的に考えられないのである。そもそも道路整備は法令に定められた手続きで進められる。仮に、その道路整備の切っ掛けが政治家の「票集め」であったとしても、その手続きの中で、合理性が認められなければ、横車を押し続ける様に道路を造り続ける様なことなど絶望的に難しい。

さらに言うなら、百歩譲って「票集め」が主たる原因の道路があったとしても、「民主主義政体における道作り」というものは、元来そういうものではないのか?そもそも、住民参加(あるいは、PI)に基づくみちづくりというのと、有権者が求める道路を政治家が造るように努力するということとの間には、本質的な差などない。ちなみに言うなら、筆者自身は、住民の意向だけで道路を造ること自体は大いなる問題であると考えているが(なぜなら、現在の住民の過半数が不合理で愚かな判断を下す危険性が常に想定されうるからだ)、民主主義を肯定するような論者は、「票集めのための道路造り」を一定程度肯定すべき立場にあるのではないか。

 

不当なデマに惑溺されることなかれ

───この様に考えれば、メディアで、道路行政に入れられがちなツッコミは、いずれも「不当なデマ」である疑義が極めて濃厚だ。万一、そう思わない本稿の読者がおられたとするなら、単なるイメージに流されずに、今一度、上記の文章を、頭をしっかりと動かしながら、じっくりと繰り返しお読みいただきたいと思う。

いずれにしても、以上を踏まえるなら、「みちづくりをすべきか否か」という論点は、マスコミや大衆世論で言われているような「天下り問題」「国の借金問題」「政治家の利権問題」等の論点とは全く別の次元で「地域の利益ならびに国益にそれが資するのか否か」という判断に基づいて下さなければならない、という、普通ならば誰が考たって至らざるを得ない様な真っ当な事実に至ることとなるのである。

すなわち、それらマスコミで喧しく取り上げられる論点に仮に合理性があるケースがあったとしても、それはそれとして対処する一方で、それとは別次元で「みちづくりの必要性」を論じなければならないのである。

 

災害とみちづくり

「みちの必要性」それは、少し考えれば万人が納得できるものだ。

人間は、色々な理由で色々な場所に行かなくてはならない。なぜなら、誰しも自分の寝床で、なすべき全ての活動をやり尽くすことなどできないからだ(引きこもり児は一つの例外だが、その引きこもり常態を維持するためにも、様々な物流が必要なことには変わりない)。かくして、人々が、色々な場所で色々な活動をやろうと思えば思うほどに、「みち」が求められるのだ。

多くの場合、そんな「みちづくり」を行うにあたって想定される活動は、地震も洪水も何もない「平時」だ。通勤、通学、営業、運送、買い物、外食、観光等々だ。

しかし、かの東日本大震災が明らかに我々に見せつけたように、我々にはいつ何時、そんな「平時」を打ち破る「有事」が襲いかかるか分からないのが、現実なのである。

もちろん、そんな「有事」は滅多に起こらない。滅多に起こらないからこそ「有事」なのであって、それが頻繁に起こるのだったらそれは平時の一部となるのだから、当たり前だ。

だから、ついつい、我々はその存在を忘れ、「軽視」してしまう。

しかし、この「有事」なるものが「滅多に起こらない」からといって、それを「軽視」していいという訳にはいかない。

なぜなら、「有事」においては、最悪、その現場に居合わせた人々皆が死に絶え、その土地や都市そのものが壊滅してしまうことすらあるからだ。

言ってみれば、有事は滅多に起こらないものではあったとしても、それが一度起こってしまえば、数多くの人々の人生の形を、そして、その地域の形を、文字通り「終焉させる」という可能性も含めて決定づけてしまう様な、超巨大な潜在力を持つものなのだ。それを思えば、数十年に一回程度しか起こらない巨大地震への対策の重要性は、一日24時間365日の平常時の各種の都市活動への対応の重要性に比して決してひけを取らぬどころか、場合によってはより大きなものである、という程に巨大なものである事がお分かりいただけるのではなかろうか。

例えば、首都直下地震の30年発生確率は70%と言われている。多くの都市計画、交通計画は、20年後や30年後を見通して立案されるのが一般的であるが、このことはつまり、そんな長期的な都市計画、道路計画を立案する時には、首都直下地震が来るということを「前提」としなければならないということだ。つまり、科学的な70%という数値を踏まえて計画を立案する場合には、計画者は「100%巨大地震が来る」というつもりになった上で(つまり、それを覚悟した上)で有事の際の避難路、救援路、食糧配給路を如何に確保するかを見据えながら、首都圏における都市、道路計画を立案していくことが不可欠となっているのだ。

それはいわば「防災計画」なるものを特別に立てることの意義が、今日に於いては喪失していることを意味している。なぜなら、全ての中長期計画は、「防災」の視点を百パーセント混入させてものでなければならないのであり、単独で防災計画を立案することそれ自体がナンセンスとなっているのだ。そしてその上で、まさにその「震災Xデー」にどの様に対応するのかを事前シミュレーションを、徹底的に考えていく必要があるのだ。

────しかし、未だ、平時の例外状況としてのみ、有事が想定されている傾きが、この国においては強い。これだけ巨大な重要性を持つ巨大地震対策の議論を始めた途端に、「シロアリ」だの「政治家の利権」だのといった、ただただ「お茶の間」受けしそうなセンセーショナルな言葉を叫びながら、理性的な議論の全てをかき消してしまうのである。

これは言うならば、これだけの未曾有の大災害を経験し、これだけの危機が科学的に明らかにされているにも拘わらず、我が国国民はまるで薄笑いを浮かべながら「平和ぼけ」の惰眠を貪りまくっている状況にあることを示している。

それを思えば「災害のために、きちんとしたみちづくりを進める」ことは、今日の大衆世論状況においては絶望的に難しい事になってしまっている、という厳然たる事実が我々の前に浮かび上がることとなる。

しかし、それは「絶望的に難しい」というだけなのであって、「望みが絶たれた絶望」を直接的に意味しているのではない。一人でも多くの地域や地域共同体を、そして、一人でも多くの国民の生命と財産を守るために我々一人一人に何ができるのかを、今ほどに真摯に考えなければならない状況は無いといっても過言で無き状況に、我が国日本は、今、至ってしまっているのだ。

そうである以上、好むと好まざるとに関わらずに「そういう事実に気付いてしまった心ある者達」は、それに気づかずに薄ら笑いを浮かべながら平和ぼけの惰眠を貪り続ける人々を哀れみの(まなこ)で横目で見ながら、そして彼等からの罵声を時に浴びせかけながらも、彼等の生命や財産、そして彼等の子供達を助けるために、我が身一つで為しうる事が何かの自問を続けながら一つ一つの行為を日々重ね続けていく他に道はないのである。そして、そうした「気づいてしまった心ある者」の一人として、そんな茨の道に足を踏み出す方々が一人増え、二人増えしていくに連れて、そうした絶望的状況は少しずつ緩和されていくであろうことを申し添え、そして、そういう「心ある」方々に心から敬意を表しつつ、本稿を終えたいと思う。