マニフェストの正当性,それ自体を疑うべし

日刊建設工業新聞 所論緒論 2009年11月5日

マニフェストの正当性,それ自体を疑うべし 

京都大学大学院工学研究科教授 藤井 聡

 

民主党は,この度の総選挙において「マニフェスト」を提示し,歴史的大勝を果たした. マニフェストと言えば,「高速道路の無料化」「子ども手当の支給」といった大多数の国民が認知しているであろう事項の他にも,「国の出先機関を原則廃止」「ガソリンの暫定税率の廃止」といった国策の大転換に関わるものから,「国家公務員の総人件費を2割削減」「CO2 排出量の25%減」等の具体的数値が盛り込まれたものなど,実に55分野100項目以上の様々な事項の実行が宣言されている.

さてこのマニフェストについて,霞ヶ関に初登庁したある新しい大臣は,職員を前にした最初の挨拶で,これを「ある意味では、国民と新しい政府との契約書、あるいは命令書」と評しつつ,1000人を超す職員にそれを履行していくべき必要性を訴えた.

多くの読者は,この発言には(うなず)かざるを得ない,と感じているかもしれない.「選挙で大勝した政権のマニフェストなのだから¾¾¾」,これが,平均的な国民の理解なのではないかと思う.

しかし,読者各位は,こうした国民の平均的理解に「許されざる重大なる誤謬(ごびゅう)」が潜んでいることにお気づきであろうか?

そもそも,我が国は「国会」が設置された間接民主制の国家である.そして国会とは国策について様々な基本的事項を決めるために国民の代表者達が「議論」を行う場である.すなわち,国の基本的な方針を国会の議論を通じて決めていくことこそ,日本の民主主義の根本論理なのである.

ところが,「マニフェスト」なるものは,こうした日本の民主的な政治体制を真っ向から否定する存在である.

マニフェストに書かれた内容は,選挙で圧勝したといえども,たかだか一つの政党の取り決めたものに過ぎず,「国会」という公明正大な場での議論を通じて決められたものではない.したがって,議論を尊重するという我が国の政体の基本的な考え方に基づくなら,国家の様々な重大事項を,マニフェストに記載していたのだからという一点のみを持ってして決めてしまうなど,不当きわまりない決定手続なのである.

無論,選挙公約としてのマニフェストを議論の「出発点」とすることは大変結構なことではある.しかし,選挙公約を即,選挙後に決定事項として採用してしまうのなら,議論を通じて明らかになるであろう様々な課題の多くが無視されてしまう事は避けがたい.いわば,マニフェストによる政治決定は,そうした論点についての「自由なる議論」を圧殺する「専制的」「暴力的」なる側面を持つのである.この一点を踏まえるなら,選挙公約なるものはそもそも抽象的方針程度にしなければならないのだ,という“当然の常識”を思い起こすことができよう.

それにも関わらず,そのマニフェストに 100以上の子細な事項が書き込まれていたのだという事実を踏まえるなら,さらに次のような側面も浮かび上がる.すなわち,マニフェストのみに基づいて政治を遂行していくという手続きは,「契約書の内容を熟読する人などほとんどいないだろう」と期待しつつ契約を結んだ後に,「この契約書にはこんなことが書いてあるんだから,こうしなけりゃいけないんですよ」と,購買者の“ナイーブさ”を指摘しつつ様々な行為を強要する「悪徳商法」と,大いなる類似点を有しているのである.そうである以上,そんなマニフェストを「命令書」「契約書」呼ばわりまでしてその履行を強要するような振る舞いは,卑劣と呼ばずして一体何が卑劣か分からぬほどの代物なのである.

¾¾¾繰り返して言おう.今求められているのは,選挙公約を正確に履行するという事なのでは断じて無い.政権党の選挙公約を踏まえた「誠実なる議論」を国会内外で大きく展開していくことこそが,今,強く求められているのである.

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