西部邁:藤井君の思慮ある勇気
2023.07.05
~本原稿は,藤井が最初に出版した“言論書”である,『正々堂々と公共事業の雇用創出効果を論ぜよ:人のためにこそコンクリートを』(藤井聡著:2010)に西部邁氏より『あとがき』として寄稿頂いたものである~
藤井君の思慮ある勇気
平成二十二年六月一日 評論家 西部邁
この十五年間ばかり,「表現者塾」というものを主催している.札幌,名古屋,京都そして福岡でもやっているのだが,東京のものが最も大きい.まとめて言えば,述べ二千人というくらいの若者たちとわたしは議論を重ねてきたことになる.藤井君はもう十年も前から,東京塾そして京都塾に出席されている.いうまでもないことだが,君はそのなかで際だつ俊秀である.その君が「公共事業の雇用創出効果」について一筆を上梓されることになり,わたしは,文字通りに,我が事のように喜んでいる.「後生畏るべし」という格言があるが,知己の若者が羽ばたくのを見るのは,自分が古希を過ぎたのであればなおさらに,愉快なものなのである.
察するに,君はこの平成の二十二年間,土木工学者として苦難の道を歩いてきたに違いない.というのも,「土木受難期」とでも呼ぶべきなのがこの平成時代だからである.一言でいえば,「公共事業悪玉論」が異常の高まりに達し,それが今や民主党政権下において「コンクリートから人へ」という扇情的な改革路線にまで,まるでコンクリートのように固まるといった有様になっている.そうした世論状況のなかで「国家にとっての土木の意義」を論じ続けるのはさぞかし腹立ちと焦燥に満ちた作業であったろうと推察せずにはおれない.
事はエコノミスト連がこの列島に鳴り物入りで導き入れたアメリカニズムの経済政策論に発している.その別名は市場競争原理主義であって,そのイデオロギーつまり固定観念から,「小さな政府」,「規制緩和」そして「公共投資抑制」といった(政策というよりも)無政策が打ち出された.新世紀に入って,とりわけここ数年間,市場競争を自由放任するという無政策の大失態が,アメリカをはじめとして各国で赤裸に露呈されているにもかかわらず,国家のリフォーム(改革)の眼目は依然として政府批判におかれているといってさしつかえない.そして政府批判の照準に公共事業がぴたりと合わされていたままなのである.
政治にあって「世論の声を聞け」という文句が金科となっているのと軌を一にして,経済にあっては「市場の声を聞け」という標語が玉条となっている.しかし,これは「デマ」なのだ,虚語なのだ.デマとはデマゴギー(民衆煽動)のデマのことであるから,つまりは,デモクラシー(民衆政治)のデモと同じく,「民衆的」ということである.そこに現代社会の世論がいかに「虚語による煽動」によって誑かされやすいかが,よく示されている.公共事業悪玉論はそうした誑かしとしての「市場の声」のみごとな代表例である.
市場活力にまかせよと多くのエコノミストが騒いでいたが,そうするためには,まず市場が「成立」し,次にその市場が「安定」していなければならない.市場取引のためには輸送が必要であり,輸送のためには道路が不可欠だという例のことを考えればすぐわかるように,公共事業は市場成立の基本条件である.しかも市場活動は,設備投資にせよ技術革新投資にせよ,未来へ向けての長期展望のなかで行われる.したがって,公共事業の長期計画が政府によってあらかじめ与えられていなければ,市場活動もまた不活発にならざるを得ないのである.
また,ケインズがつとに論じたように,企業の技術機構といい市場の価格機構といい,財サービスへの需要と供給の隔たりを速やかに調整するほどの伸縮性を持たない.潜在需要と潜在供給のあいだのインフレ・ギャップなりデフレ・ギャップなりは,政府支出の減増によって補正されなければならないのだ.そうしなければ,市場価格が,将来価格への期待・予想が急上昇したり急降下したりすることを通じて,スパイラル(螺旋形)となって高騰もしくは暴落する.そんな不安定な市場で市場活力とやらが健全に発揮されるわけもないのである.
今の日本経済はデフレ・スパイラルに見舞われつつある.藤井君が言葉を尽くして説得しているのは,公共事業による雇用創出,それなくしては国家経済が破たんするという一事についてである.わたしも同意見で,それゆえ,これまで道路建設にたずさわってきた役人達を励ますとき,次のような冗談を交えることにしてきた.つまり,「国破れて道路有り」の覚悟で頑張ってほしい,といってみせるわけだ.しかし素直にいえば,藤井君に倣って「人のためのコンクリートを」といっておけばよいのである.
公共事業の財源をどうするのかとなれば,少なくとも短期さらには中期でいうと,公債発行に頼るしかない.ギリシャ経済を破綻させている財源赤字のことを取り沙汰して,日本の財政赤字はもっと過剰だ,と騒ぐのは論外である.一つに,我が国の公債は日本人が購入している.政府の赤字は民間の黒字なのであって,国家とは「国民とその政府」のことにほかならない以上,ギリシャなどにおける外国に買ってもらっている国際と同一視してはならないのだ.二つに,建設公債は,その公共資本の建設から将来世代が便益を享受するのである以上,かならずしも「将来世代にツケを回す」ことにはならない.三つに,国家全体の財政を議論するとなれば,民間の金融資産を考慮に入れるべきで,そうすると,1500兆円という民間個人金融資産があるということを度外視して政府財政を論じるなど,愚の骨頂だということになる.
ただし,「将来世代の便益」を確実にするように公共事業の選別が行う,という仕事を軽視してはなるまい.断っておくが,ここで便益というのは「社会福祉」といったような弱者救済の政策のことではない.資源供給・エネルギー確保,都市計画・田園整備といった類の公共活動は,かならずや,土木工事を中心とした公共事業を必要とする.そしてその公共活動は,一つには「官民協調」,二つに「地域ごとの具体的プロジェクト」として企画され実行される.その意味で,ステート(政府)とネーション(国民)の協力が要請される.実際,ステート・キャピタリズム(政府主導の資本主義)だけが生き残るということが,この列島を特殊な例外として,広く認識されているのである.藤井君の仕事がその認識に向けての確かな一歩であることは疑いない.君の言論活動が今後とも活力に満ちたものとなるよう,願ってやまない.
以上