藤井聡:プラグマティズムの作法~閉塞感を打ち破るこころの習慣~、技術評論社、 2012.
2023.07.05
プラグマティズムの作法
~閉塞感を打ち破る,こころの習慣~
京都大学 藤井 聡
21世紀初頭の今日、我が国の至る所を如何ともしがたい「閉塞感」が覆っているのではないかと感じているのは、決して筆者だけではないだろうと思います.
世界に冠たる経済大国・日本というイメージは、経済の低迷によっておおよそ鳴りを潜め、その余波を受けて失業率は増え続け、国民における所得の格差は広がる一方です。その結果、大学まで出ても就職できない若者が街中に中にあふれ返るにまでなってしまいました.そして、学問の府たる大学、アカデミズムの現場でも、文理問わずに「活気」が無くなり、「低俗化/卑俗化」が進行しつつあるように思います。そしてそんな風に感じている若手研究者もベテラン研究者は、かなりの数に達するのではないかと思います。
しかも,そんな暗い時代の風潮の中で,かの東日本大震災が起こってしまいました.その復旧や復興も遅々と進まず,ますますそんな閉塞感は決定的なものとなってしまったようにも思われます.
───もしもこうした「閉塞感」の存在が否定しがたいものであるとするなら、その原因は、次の言葉に集約できるのではないかと筆者は感じています.
「日本を覆う閉塞感の全ての元凶は、日本に、プラグマティズムが不足していることある」
もちろん、こんな言葉を一言発したところで、大方の賛同を得ることはできないだろうと筆者も感じています.
そもそも、「プラグマティズム」なる訳の分からないカタカナ言葉の意味を正確にイメージできる方も限られているだろうと思いますし、仮にその言葉のイメージを十二分に持たれている方においても、それが日本の閉塞感の全ての元凶であると感じている方は、ほとんどおられないのではないかと思います。
ですから,この筆者の主張をきちんと多くの方にご理解頂くためには、それなりの「説明」が必要なのだろう思います。例えば、
・プラグマティズムというものは、一体何なのか?
・今の日本には,そのプラグマティズムなるものが本当に足らないのか?
・そのプラグマティズムなるものがあれば,本当に私たちは明るい未来を手に入れることが出来るのか?
といった様な事柄を逐一説明しなければ、我が国に「プラグマティズム」なる考え方が希薄になってしまったことが日本の閉塞感や低迷の元凶である―――、なんて主張をご理解いただくこと等は、できないだろうと考えています。
筆者が本書の執筆を思い立ったのは、筆者がこうした感触を,きちんと説明する必要があるのではないか,と感じたためです。
つまり今の日本の閉塞感の元凶は「プラグマティズム」の考え方の欠乏によるものである、だからその事実を明らかにすることこそが日本,ひいては一人一人の日本人の閉塞感を打開する極めて効果的なアプローチに違いない、しかし、それをきちんと説明するにはそれなりの分量の「説明」が必要となるだろう、そうであるなら、その事実を明らかにするための「書籍」を出版する以外に道はないのではないか――――、こうした確信こそが、本書の執筆を思い立った理由なわけです。
ではそもそも「プラグマティズム」とは如何なるものなのでしょう.
「プラグティズム」(pragmatism)は,日本語では「実用主義」や「道具主義」等と訳されているものですが,これは,19世紀から20世紀初頭にかけてアメリカの「哲学界」にて盛んに議論された考え方,あるいは思想・哲学運動の名称です。その詳しい考え方については後ほど改めて説明しますが、一人一人の日常の暮らしを想定しながら,実践的な側面を重視して,しかも,シンプルに説明するとしたら、それは、
「人間、何をやるにしても、それが一体何の目的や意味があるのかを、見失わないようにしましょう」
という考え方,と言うことができます.
こんな風に言ってしまえば、
「何を当たり前のことを言ってんだ?」
といったお叱りの言葉を頂戴しそうではありますが、残念ながら、人間社会の至るところで、この「当たり前の事」ができなくなってしまっているのが、現状なのです。
だからこそ、アメリカの哲学界では、この当たり前の事を巡って、様々な真剣な議論が展開されたのでした。
そのあたりの詳しい話は本書の中で少しずつ説明して参りますが、兎に角、社会の至るところで、「何の目的や意味があるのか」をろくに考えもせずに、いろんな人がいろんなことをし始めれば、その社会が停滞することは間違いない、という点だけは、すぐにご理解いただけるのではないかと思います。
例えば野球をやっているはずなのに、球を打ったバッターがいきなり三塁に走り出したり、守備をしているはずの選手がいきなり転がってきたボールをポケットに入れ始めたりし出したら、その野球は滅茶苦茶になってしまうことは、容易にご理解いただけると思います。当たり前の事ですが、バッターが球を打てば一塁に走り、守備がボールを拾えばしかるべき場所に球を投げなければならないのです。つまり、球を打ったバッターは、「球を打つという行為に、何の目的や意味があるのかを理解する」ことが当然の様に求められているのだし、球を拾った一塁手は「転がってきた球を拾うという行為には、何の目的や意味があるのかを理解する」ことが、求められているのです。
同じようにして、散髪屋さんに行っていすに座ったらいきなりキツネうどんがでてくれば面食らうでしょうし、うどん屋さんにいっていすに座ったらいきなり散髪されてしまってもびっくりすることでしょう。
同じようにしてそもそも国を豊かにして、国民を幸せにすることが「ポリティクス/政治」という営みであるはずなのに、政治に携わる先生方がそんな事を忘れて、特定のイデオロギーや自分の思いつきを実現すること,それ自体を目的として政治をやり出してしまったら、その国はエライ事になってしまいます。
多くの人々に適切な情報を伝えてよりよい社会を築き上げるお手伝いをすることこそが「ジャーナリズム」(報道)の勤めであるはずなのに、ジャーナリストの方々がそんな事はさておいて、ビジネスの事だけ考えて、適当な情報ばかり流し始めれば、社会は滅茶苦茶になってしまいます。
そして、真実や善きこと、美しいこと、すなわち「真善美」を追求し続けることこそが「アカデミズム」(学術)という営みであるはずなのに、大学におられる学者の先生方が皆、真にも善にも美にも無関心になってしまって,学会で有名になることや,“よい”とされている雑誌で論文を出版することそれ自体を目的にして研究活動をしつづけてしまえば,大学や学会が滅茶苦茶になってしまいます.そしてさらには,そんな学問が政治や経済に影響を及ぼしている範囲において、政治や経済も滅茶苦茶にならざるを得ません――――。
つまり、散髪屋さんにしてもうどん屋さんにしても、はては政治や報道、学術に携わる人々にしても、皆が自らがお仕えしている事(つまり、仕事)には、一体どんな意味や目的があるのかに無頓着になってしまえば、先の野球が滅茶苦茶になってしまうように、社会そのものが滅茶苦茶になってしまうのです.
だからこそ、それぞれの人々は、自らの仕事や行為の意味や目的を、しっかりと考える「プラグマティズム」の態度が希薄になればなるほど、その社会はどんどんおかしな方向に向かっていってしまうのです.
筆者が冒頭で述べたように、「日本を覆う閉塞感の全ての元凶は、日本に、プラグマティズムが不足していることなのだ」という主張は、こうした理由によるものなのです。
―――とはいえ、ここまでお読みいただいた方々の中には、既に色々な疑問をお持ちになっておられるかも知れません。例えば――――、
「そんな簡単な考え方が、大まじめに哲学界の中で議論されたなんて、ホントにあり得るのか?もしそれが本当だとしても、なぜそんな簡単な事が、なぜ、哲学の中で大まじめに議論されたんだ?」
といった,“哲学的”な疑問が考えられるかも知れません。あるいは、
「今の日本のいろいろなビジネスや政治,さらには,アカデミズム等のあらゆる分野の諸活動が、本当に、目的や意味を見失ってるのか?もしそれが本当だとしても、どの分野でどんな風にしておかしなことになっているんだ?」
といった“実践的”な疑問も考えられるのではないかと思います.
ついては本書では、プラグマティズムそのものに関わる哲学的な疑問について第一部にて考え,その議論に基づいて様々な分野や領域における実践的な議論を第二部にて考えていきたいと思います.
~「はじめに」より~
本書の企画がもちあがったのは、今からおおよそ1年前の、平成23年の年始の頃でした。
技術評論社の安藤聡氏から、新しいシリーズ出版を企画しているので執筆願いたいという打診を戴き、それを受けて一風変わった哲学書として「プラグマティズム」について論ずる書籍をまとめることとなりました。そして、おおよそ夏頃には書き上げ、秋頃には出版する事を予定していました。
ところが───かの3月11日、東北を中心に未曾有の激甚被害をもたらした東日本大震災が発災します───。
国土計画に深く関わる筆者としては、この大震災からの「復旧・復興」は言うに及ばず、この大震災が暗示する近い将来必ず起こる「平成関東大震災」「西日本大震災」に対する「国土強靱化」は、全身全霊を傾けて検討して立案すると共に、政府と国民全員に全力で提案し提示しなければならない───これが、筆者の身の内の「プラグマティズムの作法」がこの筆者に───そう表現してもいいと思いますが───「命じた」振る舞いでありました。なぜなら、ここまで人前で色々な発言をしたり国費を頂戴して研究を重ねてきたくせにここで何もしなければ、もう二度と「お天道様に顔向けできなくなる」のではないかと感じたからです。
かくして筆者は、本書の執筆を一旦中止せざるを得なりました。
そして、震災直後に「東日本復活五ヶ年計画」と「列島強靭化十年計画」の二部から構成される「日本復興計画」を、藤井研究室としておおよそ10日間で作り上げ、それを3月23日に参議院予算委員会に公述人として招聘された折に、国会の先生方、ならびに国会が配信する「動画」と筆者の京都大学のホームページを通して一般の国民に公表いたしました。さらには、同内容をさらに2週間ほどで一冊の書籍にとりまとめ、『列島強靱化論』と題して出版することとなりました。
その内容は、国土計画論、都市計画論はもちろんのこと、そのために必要となる巨大な財源を確保するための財政・金融論、それが日本のマクロ経済に及ぼす影響を論じたマクロ経済論、そして日本そのものを強靱化するための経済産業論、教育論、さらには日本民族の歴史を踏まえた「日本人論」を含むものでした。つまりそれは、日本国家が持ちうる全ての力、「国力」を、震災復興と巨大地震対策のためにどの様に結集すべきであるのかの基本的計画指針だったのでした。
その後、その計画内容を実現化すべく、いわゆる「永田町」を含めた全国各地の様々な場所、あらゆる種類の聴衆に対して、直接的な講演のみならず、テレビ、新聞、雑誌、ラジオといった様々なメディアを通して、迅速な震災復興と列島強靭化を訴え続けることとなりました。
こうした筆者の訴えが影響を及ぼしたのか否かは定かではありませんが、例えば、筆者の「強靱化」の思想に大きく重なり合う「国土強靱化総合調査部会」が様々な先生方のご尽力の下、自由民主党の政務調査会の中に設置され、公明党は「防災・減災ニューディール」という政策を党として訴えるようになりました。そして、一般メディアにおいては、「強靱化」をテーマとしたコラムの大手新聞社における定期掲載や、同じく「強靱化」をテーマとしたインターネット番組の定期配信といったいくつかの機会を頂戴することとなりました。
そうした言論活動に加えて、我が京都大学においては、「強靱さ」(resilience;レジリエンス)についての分野横断的、総合的な研究を深化させるための「レジリエンス研究ユニット」を、様々な先生方のお力添えの下で設置することとなりました。そして、そのユニット長を拝命することとなり、「強靱化」に向けての基礎研究と教育活動をさらに推進することとなったのでした。
そしてこうした諸活動を通してより具体化、かつ、総合化させていった「強靱化論」を、『救国のレジリエンス~列島強靭化でGDP900兆円の日本が生まれる』と題した一般書にとりまとめ、つい先日、それを出版いたしました。
───この様にして日本国家そのものの「強靱化」に取り組む「実践的研究/学術的実践」あるいは「ジャーナリスティック・アカデミズム/アカデミック・ジャーナリズム」に従事していた折も折、東日本大震災によって一向に世論の中で論じられなくなった「TPP」(環太平洋パートナーシップ)が、喧しく論じられるようになっていきました。
TPPとは、米国を含めた環太平洋の十カ国が、関税の完全撤廃と様々な非関税障壁を撤廃し、過激に自由貿易を推進しようとする協定です。多くの国民がそう感じていたように、筆者もまた、まさか被災者に大打撃を与えることが決定的であるTPPなどに我が国政府が加入をすることなど無かろうと感じていたところ、筆者の甘い予想をあからさまに裏切るように、時の野田首相はその参加に向けて検討を始めると高らかに宣言したのでした。
デフレ不況にあえぐ我が国日本国民の安寧ある暮らしを考えれば、そして何より被災者を守ることを考えれば、TPPへの参加などというものは「論外中の論外」以外のなにものでもありません。分野横断的包括的な公共政策研究を積み重ねてきた筆者からしてみれば、TPPに加入して幾ばくかでも直接的なメリットがある可能性をもつのは、グローバル企業だけであり、しかも、その企業の経営層だけであることは、文字通り「火を見るよりも明らか」でした。それにも関わらず、特定の理論に執着する大多数の経済学者はTPPの推進を正義として論じ上げ、大手メディアは全て判で押した様にしてTPPを推進すべしとのメッセージを連日大量に流し続けていました。そしてこの状況の中で、TPP反対の論陣を張る人々は、極めて限られていたのでした。
こうした状況を目にした時、TPPの問題を一人でも多くの国民に伝え、TPP参加という日本史に永遠に刻みつけられるであろう愚挙を食い止めんがための実践に従事すべし───これがまた、筆者の身の内にあるかの「プラグマティズムの作法」が、為すべき振る舞いとして筆者に提示したものでありました。
かくして筆者は、平時からの研究、教育、列島強靭化の言論、実践、研究に加えて、平成23年の後半には、国論を二分したTPP論争に、反対論者の一人としてテレビや雑誌等のメディアに度々登壇することとなったのでした。
野田首相がハワイのAPECにて交渉参加に向けての交渉に参加する事を表明した今、世論ではTPP論争は一旦成りを潜めてはいるところではありますが、何時またこの論戦が世論の表舞台に躍り出るかは予断を許さぬ状況にあると言いうるところとなっています。
そうこうしている内にますます筆者は、本書を取りまとめる時間が削られていくこととなります。ところが、本年年明けにはまた、我が身の内にある「プラグマティズムの作法」が「このままでは、お天道様に顔向け出来なくなるぞ」と我が耳元で囁く「問題」が持ち上がることとなります。
地方分権や道州制、TPP等の推進といった、日本各地の庶民の普通の暮らしを大きく棄損することが決定的な諸施策を声高に主張する、かの「大阪維新の会」のマスコミ世論における台頭という「問題」でした。
これもまた、日本国民の安寧ある暮らしを考える上で、全くもって看過できない大きな問題である、という事は、本書第三部でも取り上げた通りです。そして、まさに今、「地方分権」「地域主権」を巡っての言論的実践に身を投じつつある────というのが、本稿執筆時点の「今」の状況です。
───これから先、筆者の内にある「プラグマティズムの作法」が、筆者をどこに連れて行くのかはもう、さっぱり分かりません。そして、そうした筆者の振る舞いが、世間の流れに何らかの影響を幾ばくかでも与えうる事があるのかないのかもまた、筆者には分かりません。
しかし恐らくは、筆者がこの「作法」の全てをうち捨てるまでの間は、この作法はこの身をあらぬ方向に導き続けることになるのであろうと思います。そして筆者は今、少なくとも、この作法に抗わんとする意図を持ち合わせてはいませんので、しばらくはこの作法に我が身を委ねることになるだろう───とも思います。
そしてもちろん、ここまでお付き合いいただいた読者の皆様方の身にこれから何が起こるのかもまた、誰にも分かりません。
しかし、「お天道様」は、そんなこんなの私たちの身に何が起ころうとも、毎日私たちの身を照らし続けることでしょう。そうである以上、私たちがそのお天道様を見上げる事が幾ばくかでもあるとするなら、その限りに於いて、私たちは本書で述べたプラグマティストたり得ることがあるのだろうとも思います───。
いずれにしても────筆者は、これをもって、ようやく本書を書き上げることが出来ました。こうした瞬間を与えていただいた、技術評論社の安藤聡氏と我が家族をはじめとする全ての皆様方に心から感謝申し上げ、本書を終えたいと思います。
ありがとうございました。
~あとがき:列島強靭化、TPP、維新、そして、プラグマティズム~ より