藤井聡:原発は,議論以前に安全強化すべし
2023.07.05
表現者,39, pp. 103-108, 2011.
原発は,議論以前に安全強化すべし
藤井 聡
リスクを顧みずクルマを使い続ける日本人
今日,多くの人々にとっては,クルマは,日常の生活必需品となっている.
駅前やまちなかに住んでいるのならいざ知らず,郊外にでも暮らしているなら,クルマがなければ,どこにも行くことができなくなってしまう.
だから,今では,一世帯について一台どころか,一世帯について複数台所有する,という様な地域は,全国の至る所に拡がっている.そして,日本人の全ての移動の6割もが今やクルマによるものであり,三大都市圏を除く地方部に限って言えば,クルマへの依存度は7割から8割にまで達している.
こんな状況ではあるのだが,クルマ利用には極めて高いリスクがあることもまた,周知の事実である.
少し前までは,一年間の交通事故の死亡者は1万人を越えていたし,最悪の時には,一年間で2万人を越す人々が交通事故で亡くなっていた.今では,死亡者数は5000人を下回るまでに減少してきてはいるが,それでもなお,その数字は,阪神淡路大震災の時に亡くなった方々の数に迫るものであるし,「千年」に一度と言われる東日本大震災での死者・行方不明者数に4年から5年で到達してしまう程の数字でもある.
もちろん,一億二千万人以上もの国民が暮らす日本において,交通事故で数千人程度死のうがどうしようが,どうってことない,ということは言えるのかもしれないが,たった一人の死亡でも,その家族にとってはこの上ない大問題だ.
例えば,一家の大黒柱,あるいは,小さな子供が死んでしまえば,その家族に残される傷跡は生涯消え去ることはない程大きなものとなろう.
そんな恐ろしい事故がある事が分かっていながら,しかも,一生涯自動車に乗り続ければ「0・2%程度」の確率で「死」を招く交通事故に遭遇してしまうという極めて高いリスクを抱えながらも,やはり,人々は,クルマに乗り続けている.先にも指摘したように,今や日本人の移動の6割前後がクルマによるものなのであり,地方部であるなら,7,8割もが,クルマの移動によるものなのである.
現実には「安全運転」しか残されていない日本人
はたして,このクルマを巡る状況は,善きことなのか,悪きことなのか───その問題は,簡単な問いかけではない.
もしも,我が国が,一切の弊害を排除しつつクルマから完全に脱却することが可能であるなら,それはその方が善いに決まっているだろう.
しかし,クルマから完全に脱却することで,今は顕在化していない何らかの不具合が日本中で起こらないとも限らない.クルマが無くなれば,多くの人々はどこにも出かけなくなってしまい,孤立を深めていく人々が増えていくのかも知れない.日本人がクルマを一切買わなくなれば,日本のマクロ経済における内需が修復不能な程に傷つき,かえって,日本人全員の安定した暮らしが脅かされてしまうこととなるのかも知れない.あるいは,そんな事は全て杞憂で,ひょっとすると,何もかもハッピーな方向に向かうこととなるのかも知れない.
つまり,クルマが完全に無くなるとどうなるかなんてことは,容易に想像出来るような話ではないのである.
しかも,仮にそんな問題が完全に決着が付き,クルマがないことが良いのだということが確定したとしても,その「過渡期」においては,クルマを使い続けざるを得ない人々は,いつまで経っても残されることとなるだろう.誰もが,スグに,公共交通が便利な町中に引っ越すことができるとは限らないだろうし,就職先の関係からどうしたってクルマを使わざるを得ない状況にいる人も居るだろうからだ.
───だから───クルマ社会からの脱却を目指そうが目指さなかろうが,個々の世帯が脱クルマを目指そうが目指さなかろうが,そして,リスクがどれだけあろうが,そんな事は無関係に,兎に角,大量の人々は,クルマを使い続けなければならないわけだ.
しかも,現実の家族は,クルマでの交通事故のリスクだけに晒されているのではない.大地震や大津波や土砂崩れで一家が全員死んでしまう事になるかも知れないし,クルマを運転していなくても路上でひかれて死んでしまうかもしれない.得体の知れないウイルスに感染して死んでしまうかもしれないし,父親の失業や借金で一家心中せざるを得ない様な状況になることだってあるかも知れない.
そんなこんなを考えれば,クルマを使い続けることで家族が不幸のどん底に陥れられるようなリスクがあろうが,あるいは,家族でクルマを使って移動していて家族全員が死亡してしまう様なリスクがあろうが,そんなクルマのリスクだけにかかずらわっていくわけには行かないのが,現実の個々の世帯が置かれている状況なのであって,だからこそ,多くの日本人がクルマを使い続けている,というのが現状なのだ.
そういうやむにやまれぬ時に為すべきことといえば,一つしかない.
安全運転────それしか無いのだ.
安全運転さえ心がけていれば,交通事故のリスクを完璧にゼロにするということは不可能であっても,「無数に考えられるリスクの中でも,クルマだけがとりたてて危ないものというわけではない」という水準にまで,そのリスクを軽減することは可能となるのだ.
無論,そういう議論に対しては,「そんな風にして,リスクを封じ込めようという人間の傲慢こそが,今日の危機を呼び込んだのではないか」という指摘が聞こえてきそうではある.
まさに,仰るとおり.
そういう指摘に対して,この筆者とて,一切の反論の余地はない.
しかし繰り返すが,残念ながら,多くの現代人は,それが分かっていながらも,自分自身を,そして,自分自身の家族そのものを破滅に導きかねない「クルマ」を使い続ける以外の道は,「少なくとも当面の間」は,残されてはいないのである.
だからこそ,多くの日本人に残された道は,やはり,「安全運転」を心がけなければならないのである.
原発の安全操業しか残されていない現代の日本
こんな話をすれば,「何を当たり前な事を言ってるんだ」と言うお叱りの声が聞こえてきそうではある.
しかし,そんな当たり前の事が,当たり前でなくなっているのが,現在の,「原発」を巡る日本の情勢なのだ.
福島第一原発の事故を前にして,今日本人は,誠に情けないことに,恥も外聞もなく,ただただひたすらに狼狽えている.
政府からは脱原発を主張する声があがる一方で,自然エネルギー路線への転換が強硬に主張され,世論もそうした流れにおおよそ賛同を示している.そして,両者が一体になって事故を起こした張本人として東電を祭り上げ,文字通り血祭りに上げんとせんと躍起になっているようだ.
「想定外の出来事に直面した大衆が狼狽える」,という構図が,さながら「漫画」にでも描かれているかの様に分かり易く展開されているのが,今日の日本の原発を巡る情勢なのだ.
しかし,よくよく冷静に考えれば,「原発を使い続けるかどうか」という問題は,先ほど紹介した「クルマを使い続けるかどうか」という問題と,全く同じ問題構造を抱えていることが見えてくる.
そもそも,クルマには事故が付きものであるように,原発には事故は付きものだ.
クルマの事故は,時に一家を皆殺しにしてしまう程の恐ろしいものであり,そうでなかったとしても,生き残った人々を不幸のどん底に陥れてしまうほどに深刻なものとなりうる一方で,原発事故もまた,日本国民の存亡に関わる程に発展することもあれば,そうならずとも,日本全体を不幸のどん底に陥れる様な恐ろしい可能性を秘めたものだ.
にも関わらず,日本の多くの家庭が,そのリスクを知りながらも,様々な現実的な事情のために,少なくとも当面はクルマを使い続けざるを得ない状況にある.それと全く同じように,日本もまた,結局は,少なくとも当面の間は,原発を使い続けざるを得ない状況にあるのだ.
例えば,エネルギーの安定供給の問題,それを基本とした日本経済の持続性の問題,エネルギーの自給率の問題,それを基本としたエネルギー安全保障の問題といった様々な問題を考えれば,「今すぐ」に原発を取りやめるという様な判断を下すことが,全くのナンセンスな判断であることが明らかになる.それはさながら,現実的な暮らしの状況を考えれば,「今すぐ」にクルマを捨ててしまえば,通勤にも買い物にも行けなくなってしまうだろうし,かといって,職場の近くに引っ越すほどのオカネもない,だから「今スグ,クルマを捨てる」という判断が全くなナンセンスなものであることと全く同様なのだ.
そうである以上,多大なるリスクを秘めたクルマを運転せざるを得ぬのなら「安全運転」を心がけねばならぬように,多大なるリスクを秘めた原発の「安全」の確保を最大限の課題として取り組まざるを得ないのである.
あたりまえの安全強化を早急に
もしもこのロジックが無効であるとするなら,クルマの場合で言うなら「安全運転など不可能なのだ」ということが予め分かっている場合に限られるであろう.だから同様に,「安全確保の努力を怠らぬようにしつつ原発を使い続ける」という道を閉ざすことが正当化されるのは,「原発の安全運用など,不可能なのだ」ということが予め分かっている場合に限られるのである.
はたして,今回の原発事故を踏まえてもなお,我々は,「原発の安全運用は,不可能ではない」と言えるだけの根拠はあるのだろうか?
もちろん,100%の安全運転などあり得ないのと同様に,原発においても「絶対安全」という言葉が,字義通り成立することなどあり得ない.しかし,「100%の安全運転があり得ない」ことがクルマ利用の完全撤廃に即座に繋がるような事はあり得ないように,「原発の絶対安全はあり得ない」ということが,即座に,完全なる脱原発に繋がるというようなことはあり得ない.
だとすると,原発の安全性を「十分に小さく」することは,可能なのか────以上の議論を踏まえるなら,この純粋に「工学的」な問いこそが,原発の運命を決める,最も重要な問いとなるのだ.
誤解を避けるために敢えて言うなら,原発の運用についての判断は,純粋に工学的な側面だけで決まるわけではないのであって,判断をする側の資質や覚悟が決定的に重大な影響を及ぼすことは論を俟たない.しかし逆に言うなら,原発の運用について判断を下すにあたっては,そんな資質や覚悟の問題だけではなく,「工学的な問題」もまた,極めて重大な影響を及ぼすこともまた,論を俟たないのである.
例えば,今回の福島第一原発は大事故に発展したが,それとほとんど同じ津波に襲われた女川原発は無事だったのだ.
その理由は,至って簡単である.
女川原発は大津波に襲われても大丈夫な高台に設置されていた一方,福島第一原発は,津波対策を十分に考慮せずに,そこにあった高台をわざわざ削ってより低い場所に設置されたのである.その背景には,効率的に冷却水を循環させ,運営コストを縮減するためには低い方が有利であるという判断が優先されたという事があったと言われている.一方で,女川原発が高台に設置されたのは,津波対策のためには,効率性を犠牲にしてでもそこに立地することが不可欠であるという,当時の担当土木技術者の強い主張があったとも言われている.
あるいは,仮に高台の上につくることが出来なかったとしても,非常用電源が適切な場所に設置されていたならば,今回の事故は発生しなかったであろうこともしばしば指摘されている.
さらに言うと,今回の原発の構造がそのままであったとしても,菅直人首相の地震直後の「視察」さえ無ければ,迅速なベントが可能となり,ここまでの事故の拡大は,あり得なかったのではないかということも,しばしば技術者の間では指摘されているところである.
つまり,少なくとも工学的に考えるなら,適切な「技術的判断」があれば,少なくとも今回の事故は防ぐことが出来たであろうことは,ほとんど間違いないことだったのである.
無論,そんな「たら・れば」を言ったところで,今回の事故の被害が小さくなるというような事はない.しかし,これからの日本の原発を考えるにあたって,そうした工学的議論が蔑ろにされるような事が絶対にあってはならない.
万一蔑ろにされても構わないとするなら,それは,本当に原発を今すぐに全て取りやめる場合に限られるだろう.
しかし,何度も繰り返すが,好むと好まざるとに関わらず,我々は原発を今すぐやめるわけには行かないのである.だからこそ,原発の問題において,今,何よりも重要なのは,四の五の言わずに「工学的な安全の確保」を目指すことなのである.そのために,例えば,それぞれの原発について数百億円,数千億円ずつが必要とされるのなら,ああだこうだ議論する以前に,全国で数兆円をかけて徹底的に既存の原発のさらなる強靭化を果たせばよいのである.
原発に関わる深遠なる議論は,そうした取り組みが全て終わってからでも遅くはない.そもそも,今日や明日,再び巨大地震に日本のどこかの原発が襲われるかもしれないのだ.
そして何より,そこまで安全性の確保を高めた上での議論は,それを高める以前での議論と質的に抜本的に異なったものとなるということも十分にあり得よう.
だからこそ,今の日本の原発について,何よりもまず第一に必要とされているのは,熟議などではあり得ないのだ.多くの庶民が「クルマは危ないけど,しばらくは使わなきゃいけないから,少なくともその間はできるだけ安全に気を付けよう」という至って常識的な判断を下しているように,我が国もまた,「原発に対する,工学的な技術判断に基づく,徹底的な安全強化」の一点を,国を挙げて目指していくことこそが,今,早急に求められているのである.