『消えゆく幸福の時間』

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(全国商工新聞「随想」 2012年11月19日号)

『消えゆく幸福の時間』


京都大学大学院教授 藤井聡


蝉は七日で死ぬ,しかし極々希に八日目まで生き残る事があるそうだ.そんな蝉は,その最後の一日にこの上ない幸福な時間を過ごすのだという──そんな話をモチーフにした映画が「八日目の蝉」だ.

ある若い女性が不倫をし,堕胎させられ,もう二度と子供が産めない体になった上で捨てられる.絶望した彼女はひょんな事から不倫相手の「生まれたての女の赤子」を誘拐する.指名手配された彼女は人目を憚りながら逃亡を繰り返す.そしてその子が4歳の頃,小豆島へと辿り着く.彼女たちはそこではじめて,田舎の地域共同体に受け入れられつつ束の間の「幸せな暮らし」を手に入れる.そして,その村の火祭りに参加する.年端もいかぬその子は,美しい棚田でのその火祭りのシーンを,幸福に包まれた至福の瞬間の風景として心に焼き付ける──しかしその直後,まるで八日目
の蝉がすぐに死ぬように彼女は捕まり,その子は実母に引き戻される.

──月日は流れ,その子もまた不倫をして子を宿すという「不幸」な大人になる.そんなある日彼女はあの火祭りの地を訪れる.そして心に焼き付けて以来,奥底に隠し続けたあの至福の瞬間をありありと思い出す.美しい棚田,温かい大人達,そして優しい母──そして彼女は誓う,「私はこの子を産んで一人で育てる.この子に綺麗な世界を一杯見せてやる──」.

筆者は彼女にこう決意させた「火祭り」のあの風景を思い出す度に,あふれ出る涙を止めることが出来なくなってしまう──言葉では絶対に表現し得ぬそこに描かれた「幸福の時間」は間違いなく今,日本各地で日々,蒸発して続けている.日本を守るとは,畢竟そんな風景や瞬間を一つでも多く守り育て上げることの他に何もない.多くのエリートと呼ばれる人々が失念したこの一点こそが,政治と呼ばれるものの根幹にあるものに他ならないのだ.

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