公共事業「仕分け」を仕分けせよ
2023.07.05
【正論】公共事業「仕分け」を仕分けせよ
産経新聞2012.11.23
京都大学大学院教授・藤井聡
「公共事業はワルイものだ」という風潮が世間を覆うようになった。「コンクリートから人へ」という民主党のスローガンがその象徴である。政府はそんな世論に押されるように、かつて15兆円ほどあった公共事業を、わずか十数年の間に半分以下の6兆円程度にまで大幅に削減してしまった。
≪「費用便益分析」弊害多く≫
その結果、政府はどの公共事業を削るべきかという「判断」を毎年、迫られるようになり、公共事業現場では、民主党が生まれる前から、「事業仕分け」が毎年繰り返されるようになっている。
「公共事業仕分け」で大活躍したのが「費用便益分析」である。「B/C(ビー・バイ・シー)」とも呼ばれ、便益(B=ベネフィット)と費用(C=コスト)の比を考えるものだ。元財務官僚の高橋洋一氏は、費用と便益の比が1を上回れば、つまり費用を便益が上回るなら、その事業は「いくらでもやっていいはずだ」とメディアで発言している。裏返せば、1を下回る事業は「仕分けされるべきだ」との暗示でもある。
費用と便益が正確に評価されているなら、筆者も高橋氏の意見に大いに賛同する。だが、残念ながら、現実はそんな理想とは似ても似つかぬひどい状況にある。
道路や鉄道に関する政府の現行「B/Cマニュアル」では、沿線の人口も商店も工場も一切増えないし、整備したからといって、都市が活気づくなんてことも一切ない。その事業によって雇用が創出される自明の効果も全く算定されずに、景気刺激効果なんてものは絶対にないという、恐ろしく非現実的な仮定が設けてある。
例えば、道路では40~50年、鉄道に至っては30年程度で、「全ての便益がゼロになる」という常識では考えられない前提である。さらにいえば、巨大地震・津波に際しては、道路や鉄道は「避難路・救援路」に活用できるし、災害に対してしなやかな国土にする「地方分散化」にもつながるにもかかわらず、そのような「防災・減災効果」は考慮されていない。
≪命に直結する巨大地震対策≫
つまり、政府の現行「B/Cマニュアル」では、「本来の便益」の数割、いや数%ほどしか反映されないのが実情なのである。
こんな滅茶苦茶なマニュアルに従って「B/C」を実施し、1を下回れば仕分けするのであれば、本来なら絶対に必要な膨大な数の公共事業が仕分けられてしまうことは、誰の目にも明らかだ。
そうすることによって、兎にも角にも公共事業を削りたいと考える人たちは、自らの目的を達することができているのだろう。この十数年の間に公共事業が半分以下に削減されてしまったと先に指摘したような、近年の状況変化の背景には、政府の「B/Cマニュアル」に基づいて、数々の事業が仕分けされてきたことがある。
そうした「仕分け」によって現実に被害を受けるのが、一人一人の国民であることは明白である。不条理な「仕分け」さえなければ受けられていたはずの、莫大(ばくだい)な便益が「ゴミ箱」に捨てられたも同然になってしまうのである。巨大地震対策のための強靱(きょうじん)化事業に限っていえば、誤った仕分けの被害たるや、「人間の命」に直結しかねない程度にまで及ぶだろう。
だから、われわれ日本人は、この手の間違いだらけの事業仕分けなら、もういい加減、おしまいにしなければならないと思う。
≪真っ当な「費用対効果」を≫
そうでなくても、日本は現在、東京、大阪、名古屋など大都市圏に想像を絶する激甚な被害をもたらす巨大地震が、いつ何時襲うかもしれないという状況に置かれている。単に公共事業を削るためだけに「便益」を過剰に少なく見積もるような「B/Cマニュアル」を一刻も早く捨て去って、真っ当な「費用対効果」を見据えつつ、国家、国民を守るための国土強靱化対策を考えなければならないという時期に、われわれはさしかかっているのではなかろうか。
とはいえ、まことに愚かなことに、「行政の継続性」なるもののために、これまで政府が採用してきたマニュアルに沿って、「B/C」の値が、「異常に小さく見積もられる」という事態はしばらく続くであろう。そのことは、十二分に予期できるところである。
だとするなら、われわれは「B/C」に基づいて公共事業や強靱化事業を仕分けすべきだという論調を見聞きした場合には、まず、その「B/C」が真っ当なものかどうかを疑ってかかるという理性的かつ慎重な態度を持たなければならないのではなかろうか。
むろん、「そんなことは面倒だから御免だ」という国民も少なくないだろう。しかし、いつまでもそのような態度を取っていては、「国民の命」を含めたかけがえのないさまざまなものを、われわれは失い続けていくであろう。残念ながら、それは確かである。
だからこそ、筆者は一人でも多くの日本国民が、公共事業や強靱化事業について真剣に考えてみるという姿勢を身に付けられんことを、切に願いたいのである。(ふじい さとし)