被災地を「壊死」させないために

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【正論】被災地を「壊死」させないために

 

産経新聞,平成23年12月16日

 

京都大学大学院工学研究科 藤井聡


日本は今,世界大恐慌の再来の危機や超巨大地震の連発等の恐ろしい国家的危機に直面している.だから今求められているのは,「強くしなやかな強靱な国」をつくりあげるためのあらゆる取り組みである.

その中でもとりわけ今強く求められているのは「震災復興」である───しかし恐るべき事に,その復興の最高責任者たる我が国政府は,被災地を見捨てるかの様に振る舞い続けている.

そもそも本格的復興予算と言われた第三次補正が決定されたのは8ヶ月以上もの時間が経過した11月だった.しかしこの8ヶ月の間,被災地にはカネさえあればできた事が山程あったのだ.しかしそのなすべき事柄の大半が政府の無為によって差し止められてしまったのであり,その結果,数多くの「ふるさと」がさながら壊死(えし)するかの様に二度と回復できない状況にたたき落とされてしまったのだ.

さらに言うならこの第三次補正も十分なものである保障などどこにも無い.例えばわずか2兆円の補正予算が決定された7月の段階で野党側が主張していた補正予算は,今回の三次補正の金額を遙かに上回る17兆円だった.それだけの予算が7月の時点で決定されていたのなら,救うことが出来た筈の「ふるさと」が数多くあったことは間違いない.

もちろん,こうした批判を政府に差し向けても,彼等は「復興に真剣に取り組んでいます!」と声高に主張することだろう.しかし彼等は本当に,被災地に赴いて被災者の(まなこ)を見据えながら,それでもかつそんな事を勇ましく言い放つことができるのだろうか───.

そもそも我々日本人は,あの大戦後の焦土と化した国土にバラックや闇市をつくるところから始めたのだ.復興において何よりも大切なのは,小綺麗なアイディアやプランではない.生き残った人々の復興にかける意志と魂の活力こそが何よりも重要なのだ.だから政府は,創造的復興なるものや財源論などを論じている間に,一日も早く大規模に財政を出動し,被災地の人々の復興に向けた意志と活力を徹底的に支援すべきだったのだ.

しかもさらに恐るべきことに現政府は被災地を「放置」するばかりではなく,この天災を「利用」しようとすらしている節が伺えるのだ.

読者各位はここ最近,大災害によって破壊された土地で大資本家が新しいビジネスを始めるというタイプの資本主義が,世界中にはびこり出しているという事実をご存じであろうか?例えばスマトラ沖津波の時には,これを好機と捉えた大資本家によって被災地に大リゾート地が造られた.ハリケーンカトリーナの時には,これを好機と捉えた大資本家の圧力によって百校以上もの公立学校が廃校にされた一方で,20校以上もの私立学校が大資本家達によって新たに造られた.

これらは全てフリードマン教授を代表とする経済学者達の理論に基づいていたのであり,事実彼はカトリーナの時には上記の「構造改革」を臆面もなく政府に直言しているのである.つまりそこには,大資本家達が天災を絶好のビジネスチャンスと捉えて,自らにとって都合の良い学者達を使いながら政府に圧力をかけ,新しい商売を始めるという構図が透けて見えるのである───.

この想像を絶するおぞましい可能性を世に問うたのは,カナダのジャーナリスト,ナオミ・クラインであった.彼女はこの天災に便乗する新しいタイプの資本主義を災害資本主義と命名し,その手口をショック・ドクトリンと呼称している.

一方で,我が国政府はこの度「復興特区法」を国会に提出しこれを成立させた.これは「復興のために被災地に特区を」という趣旨のものだが,その内容は要するに,被災地で構造改革,規制緩和を徹底的に推進すると同時に,外資も含めた大資本家からの様々な投資を呼び込もうとするものだ.

そもそもこの法律は現政府の「新成長戦略」に基づくものなのだが,それは震災以前に閣議決定されたものだった.つまりはこの法律は,政府がもともとやりたかった「特区による構造改革」を,天災に「便乗」して進めてしまおうとするものなのである.

これは文字通りの「災害資本主義」である疑義が濃厚だ.

もしそうであるとするなら,その果てにあるのは「ふるさと再生」なんかではなかろう.そこには「外資も含めた資本家達の営利目的のために好きなようにいじくり回された土地」が作り上げられてしまうことが,現実に懸念されることとなるだろう.

もちろん,読者の中には,それは一つの可能な解釈に過ぎないのではないか,とお感じの方もおられるかもしれない.しかしもしこの解釈が正当であるなら,それは「被災者」には大いなる不幸をもたらすこととなるだろう.それが現実に懸念される以上は,今求められているは,この「危惧」を一人でも多くの国民が冷静に「吟味」することであるに違いないだろう.