「学問の自由」を破壊する改革を止めよ (抜粋)

表現者 平成26年6月号

「学問の自由」を破壊する改革を止めよ (抜粋)

藤井聡

衰微するアカデミズム
今日、日本の学術界、アカデミズムの劣化は著しい。大衆社会化の中で、あらゆる学問分野が過剰に専門化した。それぞれの専門家は、自身の専門以外への関心を失くし、自身の分野に閉じこもり始めている。結果、微細な研究分野が乱立し、それぞれの分野の中で、かつてなら、二流、三流にしかなれなかった研究者達が、いたるところで「権威」を名乗り始めている(中略)。

しかし、日本のアカデミズムが完全に死に至ったわけでは無いこともまた、事実だ。衰弱するアカデミズム界にあっても、未だ、なんとかアカデミズムを護ろうとする人々は存在している。

今をときめくiPS細胞にしても、その黎明期は大きく注目されたものではなかった。今日俄に注目を集めている燃料電池にしてもメタンハイドレートにしても、かつては誰も見向きもしないコツコツとした地道な研究だった。

筆者が政府内でお手伝いしている「国土強靱化」(巨大地震等の国家的災害に対する強靱性を確保するための国家プロジェクト)にしても、今では基本法も整備され、安倍総理を中心にその基本計画が立案されようとしているものの、その出発点は「経済レジリエンス研究」なるマイナーな経済学研究にしか過ぎなかった。

「多様性」が強靱性を導く
これらの基礎研究は、注目された後は強力に後押しされるものの、その出発点は、いずれも大学を中心としたアカデミズム界における、誰も見向きもしない小さな研究プロジェクトであった。

つまり、それら研究は、何千、何万とある実に様々な研究の中のごく一握にしか過ぎず、残りの膨大な数の基礎研究は、華々しい成果に結びつくこと無く、見捨てられてしまう運命にあるのである。

逆に言うなら、そこに「研究の多様性」があり、ムダとしか言い様の無い様々な研究があったからこそ、巨大な影響を世界に及ぼす一握りの研究が生まれて来たのだ。そして、「多様性」が乏しく、皆が似たような研究ばかりをやっているなら、将来華々しく展開する研究が生まれてくる可能性それ自体が、絶望的に縮小する。

それは丁度、突然変異と自然淘汰で展開する、生物の進化プロセスと同様だ。

そしてそんな進化プロセスにおいて重要なのは、いうまでも無く「突然変異」だ。この突然変異があるからこそ、生物の「多様性」が常に生み出されているのであり、種族全体の「生存可能性」が飛躍的に向上していく(中略)。

だから、強靱な種とは、(与えられた環境の変動性の水準に見合った適切な頻度で)「突然変異」を行い、適度な「多様性」を保証している種だ、と言うことができるのである。

「突然変異」の場としての大学
さて、大学の研究とは、まさに、生物の進化における「突然変異」の役割を担っている。いわば、社会が新しい環境下でも存続し続ける可能性(生存可能性/強靱性)を保証するために、常識で考えればムダとしか思えない様な研究を行い、一定の多様性を社会の中で確保し続ける「責務」を負っているのが、大学を中心としたアカデミズム界だ。

すなわち、長期的な進化プロセスの視点から「ムダであり続ける義務」(より正確に言うなら、ムダであり続ける事を通して公益を最大化するための多様性を確保し続ける責務)を負うのが大学なのだ。

「学問の自由」とは、まさに、そのためにある言葉だ。あらゆる一般常識や権威から「自由」になってはじめて「ムダであり続ける義務」を担うことができる(例えば、筆者の京都大学の校風として最も尊重され続けてきた「自由の校風」の真義とは、まさにこの点にこそあるものなのだ。なお、誤解を避けるためだけに付記するが、捏造を含めた人倫にもとる行為を図らんとする自由などあるはずもない)。

そして、冒頭で指摘した「過剰な専門化と権威主義の横行」が問題なのは、まさに、専門化や権威主義が「一般社会」にはびこる非アカデミックな凡庸な論理に他ならないからだ。自由たらねばならぬアカデミズム界にあっては、そんな凡庸性は不要であるばかりか有害でしかない。事実、専門分化し権威主義が横行すれば、そこにはもう一切の「突然変異」が起きなくなるではないか。

つまり、「専門化と権威主義」という一般世間の凡庸性がアカデミズム界にて横行することによって、アカデミズム界が「ムダな多様性」を生み出す潜在力を著しく喪失していくのである。

かくして「専門化と権威主義の横行」は、社会全体の強靱性を損なわるが故に、深刻な問題なのだ。

この問題に対しては、我々はどう、立ち向かうべきなのか。

以上の認識に基づけば、その方針は、論ずるまでもなく明白である。

「学問の自由の復活」───これを措いて他に無い。

「学問の自由」を通して過剰な専門主義を廃し、過度な権威主義を廃すことこそが、大学において何よりもまず求められるものなのである。そしてのためにも、世間一般の「常識」から、徹底的にアカデミズム界が「自由」となることこそが必要なのだ。

大学改革という「改悪」
しかし───今我が国は、この方針とは真逆の「改革」をなそうとしている。その改革を推し進めれば、学問の自由は損なわれ、学問の多様性は著しく毀損する。そしてそれは早晩、わたしたちの社会の多様性を損ない、新しい環境への適応可能性を損なわせ、最終的にわたしたちの社会の強靱性、生存可能性それ自身を損なわせていく──そういう種類の改革が行われようとしている。

すなわち、今、国会では、「学校教育法」の改正が審議されようとしている。

学校教育法の改正の主たるポイントは、以下の三つである。

第一に、大学の基本方針を協議する「経営協議会」の過半数を「学外メンバー」とする。現時点ではこれが「二分の一」と定められているのだが、これでは、大学の内部の人々の抵抗にあって改革が進まないが故に、内部よりも外部の人間の数を半分以上に変え、改革を進めやすくする、というのが、この改革の趣旨である。

第二に、学長の選定の「基準」に対して、学外のメンバーが多数を占める「経営協議会」が、より大きな影響を及ぼし得る可能性が拡大する。つまり、これまで慣習的に選挙を執り行ってきた大学においても、学外メンバーが導入した選挙結果以外の基準で、学長が選定される可能性が増進する。

第三に、これまで、個々の教授の見識や教授同士の議論に基づいていた研究分野や領域、教育内容などの決定について、これからは「学長」が決定する権限を所持することとなる。個々の教授の意見を聞き入れるか無視するかは、全て「学長」の一存で決まることとなる。

すなわち、学長の権限を徹底的に強化する一方、その学長の選定基準については学外メンバーが自由に決定できる、という体制への改変が、今、まさに国会で議論されているのである。

繰り返すまでも無く、そもそもの大学の責務とは、「学問の自由=固定観念からの自由」の下、「多様性」を確保する事を通して、社会全体の「生存可能性・強靱性」を確保する事である。

そうである以上、アカデミズム界は(あるいは、社会の中で少なくともアカデミズム界「だけ」は)「社会の常識」から自由であるべき存在なのであり、万一そうした自由が損なわれれば、社会と世界の生存可能性それ自身が損なわれてしまう。ところが、今回の改革にて、経営協議会や学長といった存在を通して、アカデミズム界の外部からの意向を「強制的」に大学に注入する仕組みが作りあげられんとしているのである。

そうなれば、遅かれ早かれ、今日の一般社会の風潮を考えみるに、ビジネス市場主義や効率性を重視する市場主義の思想が、大学の中に注入されていくことは避けられない。そして、学問の自由の視点ではなく、あくまでも、ビジネスや効率性の論理でもって、「選択と集中」が行われ、既に研究として新規性のない研究にだけ多くの資金もポストも使われるようになり、これから必要になるかもしれないものの、現時点ではムダにしか見えない研究分野は、排除されていく他無いだろう。

例えば、今となってはそれなりに重要性が認識されている「強靱化/レジリエンス」の研究については、それなりに研究資金やポストがあてがわれるかもしれないが、これから他の研究者達による新しい研究が生まれてくる可能性は、ますます低減していく事となろう。事実、今日行われようとしている改革が仮に数年「前」に断行されていたとするなら、筆者は現実的に、経済レジリエンス研究なる、経済学会では嘲笑の対象になるような誰もが見向きもしなかったマイナーな研究を「始める」事すらできなかった可能性は大いにあるのである。

だからこそ、今、国会で議論されている大学の改革は、大学の本来機能を破壊し、わたしたちの社会の多様性、強靱性、生存可能性を過激に低迷させる「可能性」を大いに秘めた、極めて「危険度」の高いものであることは、心ある読者なら誰もが認識できるのではないかと思うのである。

もちろん、今日の大学には、冒頭でいの一番に既に指摘した様に、実に様々な問題を抱えている。筆者はそんな問題を放置し続けることが正当であるなぞとは微塵も考えてはいない。しかしだからといって、これまでのあり方の全てを破壊し、全く論理を導入する「改革」を断行すれば、今日の大学に残されている「良き側面」もまた同時に破壊され、それを通して大学は多様性を失い、社会の強靱性が損なわれてしまうことは、火を見るよりも明らかなのである。

だからこそ、「問題」が見て取れるのなら、その「問題の構造」をしっかりと見てとり、それこそを一歩一歩「改善」していく他に我々がなすべき事等どこにもないのである。

我々が志向すべきは、全てを破壊する「改革」なのでは断じてない。良きところを伸ばし、悪しきところを最小化していく「改善」に他ならない。例えば、我が子に問題があるからといって、我が子の人格を全て改革してしまう事など不可能ではないか。出来る事はあくまでも、長所を伸ばし、短所を最小化する改善以外に何も無いのである。

おりしも、大学が抱えている問題の根源的原因は、大学内部に、権威主義や効率主義や専門主義という大学内で本来あってはならない大学「外部」の論理が注入されたという所にこそあるのだ。いわば、大学の劣化は、社会の劣化をそのまま映し出しているに過ぎない。そうであるのに、さらに過激に大学外の論理を強制的に注入する様な改革をすれば、それは「改善」どころか「改悪」をもたらす以外に無いのは、明々白々ではないか。

日本国の本件に関与する全ての人々が、こうした当然の論理を理解する、真っ当な良識を持つ事を、心の底から強く祈念したい。

追伸: 本稿はあくまでも個人の見解であり、筆者が属するあらゆる組織の主張とは一切関係なきものである。

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