藤井 聡:心ある日本国民は“橋下維新”を徹底的に警戒すべし、日刊建設工業新聞(所論緒論)

11月 30, -0001 by 未分類 No Comments

日刊建設工業新聞(所論緒論)、2012.3.29

心ある日本国民は“橋下維新”を徹底的に警戒すべし

 

京都大学都市社会工学専攻 藤井聡

 

多くの日本国民は、民主党政権に対して、遅々として進まない震災復興や(空々(そらぞら)しい)不退転の決意でのぞむ増税路線を目の当たりにした今、大きな不信の念を抱いている。しかしだからといって野党第一党である自民党の支持率が大幅に上昇したかと言えばそうではない。今の日本国内の大衆世論は「自民もダメだが民主もダメだった」というものだからだ。

そんな風潮のなかで台頭してきたのが「大阪維新の会」である。

少なからぬ国民は民主も自民もダメなら、やけのやんぱちで「ここは一発リーダーシップがありそうに見える橋下にかけてみようじゃないか」という気分に浸っているように思う。

それはさながら、黒船と度重なる巨大地震で「不安」に駆られた幕末の民衆が、「やけのやんぱち」ではじめた「ええじゃないか運動」の様なものだ。

しかし、そんな時代の中で成し遂げられた当時の「維新」と、今日橋下氏が声高に叫ぶ「維新」とでは、決定的な違いがある。

かつての維新は、西洋列強という「明確な危機」を見据え、その危機に対応せんがためにええじゃないか運動とは「一線を画す格好」で、一部の志士達によって達成された。しかし、平成の維新は、ええじゃないか運動と一線を画すどころか、ええじゃないか運動そのものとして権力の中枢になだれ込もうとするものだ。

そもそも、維新の会に関わるどの書籍やホームページを見ても、一体何のために維新を成し遂げようとしているのかが明瞭ではない。もちろん、彼等は「明瞭だ!」と叫ぶだろうが、TPP参加や道州制や地方交付税交付金の廃止や参議院の廃止はいずれも、大衆受けする要素を含んではいるものの、それによって日本がどの様になっていくのかのヴィジョンは一切明らかではない。考えてみればそれも当たり前で、「ええじゃないか運動」には、気分はあってもヴィジョンは不在なのである。

こうした光景をわたしたちは、2009年の夏に見たはずだ。かの民主党が勝利した「マニフェスト選挙」である。あの時も多くの日本国民は、政策の内容よりもむしろ、「ノリ」の様なもので民主党に投票したのだ。

そしてそれを今、多くの国民が折角後悔し始めているにもかかわらず、性懲りもなく、また再び同じ事を繰り返そうとしているのである。

───そういう未来は決して来て欲しくはないが───もしも維新の会が国家権力を掌握し、彼等が言う「八策」が推進される未来が来たとすれば、日本国民は民主党政権に対して差し向けた後悔の念を遙かに上回る後悔の念を後日抱くこととなろう。

なぜ筆者がこれを「断定」できるのかと言えば、それは橋下氏が次のようなセリフを口にしていることを筆者は知っているからである。

「政治家を志すっちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ。その後に、国民のため、お国のためがついてくる。自分の権力欲、名誉欲を達成する手段として、嫌々国民のため、お国のために奉仕しなければならないわけよ。….別に政治家を志す動機付けが権力欲、名誉欲でもいいじゃないか!….ウソをつけないヤツは政治家と弁護士になれないよ!嘘つきは政治家と弁護士のはじまりなのっ!」

これは(今では絶版となっている)『まっとう勝負』なる彼の書籍の中の言葉である。この言葉からは、彼の政治家としての発言に疑義を抱かざるを得ない。

もちろんこれを直接彼に指摘すれば「そんな事はない!」と理路整然と反対するだろうが、一旦上記のような発言をしている以上は、その反論そのものが本当であるのかという疑義を拭うことは原理的に不可能だ。

日本国民は、この「真実」を知らねばならない。

そして、その上で、橋下氏の発言や行動には最大限の警戒心を抱かねばならぬのである。

 

未編集稿