藤井聡:本来、「交通基本法」が具備すべき要件

11月 30, -0001 by 未分類 No Comments

IATSS Review, 37 (1), pp. 71-78, 2012.

本来、「交通基本法」が具備すべき要件

 

藤井聡(京都大学大学院工学研究科教授)

 

概要 交通基本法は、日本国家の永続的な誇りある安泰と、日本国民の誇りある安寧なる暮らしの永続のために執り行う、「交通」に関わる行政政策の展開を促すものでなければならない。本稿ではそれが具備すべき要件を明らかにするためにまず、「交通」とはそもそも「通」が含意する物理的な移動現象よりもむしろ、「交」が含意する様々なレベルの共同体における「社会」(的動態)そのものを意味するものであるという点を明らかにし、その上で、そのそれぞれの共同体の社会そのものを活性化し、健全化し、存続させるための各種取り組みを促す移動に関わる施策群を「促進」するものとして、交通基本法を制定すべきであることを論証した。

Basic transportation low should be launched for promoting transport policies to achieve prideful and peaceful Japanese nation-states and Japanese people’s life. In this paper, transportation is discussed to be not only physical traveling phenomena but also social process. It was then stressed based on this definition that the law should be launched to promote transportation policies for activating, improving and letting the society for communities surviving.

 

 

交通基本法のあるべき趣旨

 「交通基本法」は、民主党が野党時代に国会に提出たものの賛成多数に至らずに廃案となってきたものであるが、現在、改めて、その成立が検討されている。その見通しの下、国土交通省では十数回の検討会を開催し、関連する専門家、学識経験者から意見を収集すると共に、数回のパブリックコメントを行っている。

 「交通」というものは、その問題を切実に捉えている一部の地方の人々を除けば、都市住民を中心とする多くの国民がその言葉から受ける印象は、極めて地味で、各種の行政政策の中でも、その優先順位は必ずしも高いものではないと思われているように感じられる。

 しかし、多くの交通に関わる専門家達が共通して理解している様に、交通の有り様は、わたしたちの社会に極めて大きな影響を及ぼしている。

 ただし筆者は、その多くの交通に関わる専門家諸氏の間ですら、交通が及ぼす重大な影響の全容についての過不足無い理解が全員に浸透しているかと言えば、それは怪しいのではないかと────感じている。なぜなら、交通は、交通工学や土木計画学、経済学で頻繁に議論される、利便性や快適性、地域経済、人口分布や土地利用は言うに及ばず、それら学問分野では十分に取り上げられているとは言い難い、人間と社会の諸相のあらゆる側面に甚大なる影響を及ぼすからである。そしてそれらの影響を、「社会的・民俗的影響」と呼称するなら、地域の人々が交通に関わる諸インフラの整備やその運用(すなわち、いわゆる広義のモビリティ・マネジメント)を強く望むのは、地域の人々がその社会的・民俗的影響を潜在意識の中で強く感じ取っているからなのではないかと思う。そしてさらにそんな「社会的・民俗的影響」の中でも、とりわけ彼等が最も強い恐怖を感じているのは、自らの「地域」や「まち」「集落」「民俗」といった共同体そのものが、「死滅」する危機なであることは間違いないだろう。

 ただし、当の交通整備を求める地方の人々すら、その自らの潜在意識の中で直観している「死滅の危機」を含めた「社会的・民俗的影響」を適切に表現することができず、「工場立地」「観光客数」「人口流出」といった、いわば経済学的な指標を用いつつ、交通の必要性を訴えるという事態となっている様子が多分に見受けられる。

 なぜ彼等がそれを適切に表現し得ぬかと言えば───アカデミズム/学術界の側が、その適切な表現系を、必ずしも世間に十分に供給してはおらず、致し方なく、アカデミズム/学術界から世間に供給されている経済学的な指標のみを用いて語ろうとしているからなのでは無いかと考えられる。

 いずれにしても、日本国家の国家的な交通政策の憲法と呼ぶべき「交通基本法」の成立を考えるとするなら、これまでのアカデミズムの流れをさておき、以上に指摘したような「交通」がわたしたちの国と地域に及ぼす影響を全的に把握した上で、その影響を「適正化」していくための取り組みを促すものでなければならない。

 本稿では、そうした視点に立ち、「交通基本法」が本来具備すべき要件を明らかにしたい。

 

現代交通研究者の「陥穽」

 交通基本法を考えるにあたって最も重要なのは、「交通」とは一体何なのかという定義である。

 この点について、例えば交通工学、交通計画においては、樗木・井上(1993)1)は、交通を「人、財貨、情報が場所的に移動する事象」、太田(1988)2)は、「人間の意思による人及び者の空間的移動」とそれぞれ定義している.一方、交通経済学においても、例えば土井・坂下(2002)3)は、「人または物を場所的に移動するサービス(無形財)(p6)」として交通サービスを定義してる.

 この様に、これまで交通研究の主流は、「(人間の意思が介在する)人や物の空間的な移動」と捉えるというものであった。

 こうした交通の定義の源流について、中野(2012)4)は、島田(1937)5)等にみられる我が国の交通経済学の古典が、ドイツの交通経済学者であるボルヒトやザックスの影響を大きく受けていることを指摘し、かつ、ボルヒトが交通を「人、貨物並びに思想が場所的に移動すること」と定義していたことを明らかにしている。そして、このボルヒトの定義が、我が国に於いて標準的に採用されてきたのであろうことを指摘している。

 しかし、これらの定義では、大陸間弾道弾のミサイルは「人間の意思が介在する物の空間的な移動」ということで、立派に「交通」と定義付けられてしまうし、ジェットーコースターもまた「人間の意思が介在する人の空間的な移動」ということで「交通」と定義づけられてしまうこととなる。しかし、我々が日常用語で用いている「交通」の用法からすれば、明らかに常識から乖離した用法であると言えるだろう。

 この違和感は、交通をあくまでも、「意図が介在する移動」と見なしてきた点に求めることができるだろう。すなわち、一言で言うなら、交通というものを、交通の二つめの文字である「通る」「通う」というものとして捉えてきたと言うことができるわけである。

 しかし、交通には、後者の文字である「通る」「通う」という空間移動を意味だけでなく、前者の文字である「交」の意味も胚胎されているものである。つまり、交通には、「交わる」「交じる」という意味も含まれているのである。この「交わる」という言葉が意味するのは、「(とお)ったり」「(かよ)ったり」した上で訪れた先で、複数の人々によって執り行われる過程のことである。つまり、交通には、移動という意味のみならず、「コミュニケーション」という意味も、その言葉の中に胚胎されてきたのである。ところが、先に引用した現代の交通工学、交通計画、交通経済学における標準的な定義を鑑みれば、「通」という移動の側面ばかりに焦点が当てられ、「交」というコミュニケーションの側面が捨象されてきたと言うことができるであろう。

 ここに、現代の交通研究者の大半がはまりこんでしまっている、大きな「陥穽」(落とし穴)が存在しているということを指摘することができる。

 

現代交通研究者の陥穽は、方法論的個人主義と物理学的方法論によってもたらされた

 さて、こうした現状ではあるが、我が国における交通研究黎明期には、交通の「通」だけでなく、「交」の側面も十二分に視野に納められた議論が、小島(1930)6)によって展開されていたことが、中野(2012)3)によって指摘されている。

小島(1930)5)は、交通には、第一義として「人と人との間に或関係を成立せしむるの、若しくはこれを維持するの、原因たり、手段たり、また結果たるものであって、要するに人と人との間の総ての動的関係を意味する物であるから、乃ちその総体は社会の動的方面を指すものの外ならぬ・・(中略)・・この動的関係の集成が社会的関係であって、そのここの表現は即ち人々相互の『交わり』である.これが前述のごとく交通なるものの本来の意味である」(p.7)としている.すなわち、小島は、交通の「交」が意味するコミュニケーションこそが、交通の「本来の意味」であると指摘しているのであり、あくまでも、その派生物として、交通の「通」という、ボルクトが定義し、現代日本の交通研究者の間で主流派の定義とされている物理的側面を定義しているに過ぎないのである(c.f. 中野、20123))。

 さて、この様な小島の思いとは裏腹に、「交」が暗示する交通の「社会的側面」が捨象され、「通」が暗示する交通の「物理的側面」が、実に一世紀近くも重視され続けてきたのには、20世紀以降、日本の学術界を含めた世界中の学術界の基本的な潮流が、その様な方向に流れ続けてきたからだと言うことができる。

 >日本のみならず、世界中の社会科学界は今や、(分析の単位として集団や社会ではなく、あくまでも一人一人の個人individualを設定するという)「方法論的個人主義」が、(分析の単位として個人ではなく、あくまでも一つの統一体としての集団や社会をおく)「方法論的全体主義」よりも、なにがしか「上等」で「正当」なものと思われる全体主義的な空気に包まれてきていると言って大過なきところであろう。

 例えば、社会学において最も伝統的な考え方は、スペンサーやコントらが主張した「社会有機体説」である。これは、地域社会や会社組織、あるいは、国民国家などを一つの「有機体」と見なす考え方であり、「方法論的全体主義」の最も典型的なものであるが、この考え方は、20世紀初頭から、さながら古くさい、根本的に間違った理論であるとして斥けられ続けてきている。

 さらには、そうした方法論的個人主義の隆盛に歩調を合わせるかたちで、物理学的方法論が、社会科学において「標準的」な学術的アプローチであると認識され続けるに至っているが、これもまた、20世紀の交通研究のあり方に抜本的な影響を及ぼしている。

 この背後には、産業革命以降の近代合理主義の、いわゆる「成功」が大きく影響を及ぼしている。すなわち、様々なシステムを、いくつかの要素に分解すると同時に、それぞれの要素の挙動を記述する方程式を複数想定し、それら方程式群で、当該システムの挙動全体を記述しようとするものである。太陽系も銀河系も、はたまたビリヤードの球の挙動も、物理学では全てこのように表現し、数々の成功を収め、クルマが走り、飛行機が飛び、はては月にまで人類を往復させることに成功した訳である。

 そして、こうした方法論を社会科学の中に適用したのが、主流派の現代経済学(さらに具体的に言うなら、新古典派経済学)である。彼等は人間の挙動を効用関数で記述しながら、その交互作用を数理的に表現しつつ、経済システム全体の挙動を、そうした方程式群で表現しようとしているわけである(無論、そういう立場をとらない経済学の流派も存在するが、現代における主流派経済学は、そうした新古典派経済学的となっている事は間違いない)。

 そして、物理学的方法論に於いて重要となるのは、個々の要素の「挙動」、さらに言うなら、個々の要素の「時空間内における物理的軌跡」だけが重視されることとなり、それぞれの要素内の状態(例えば人間の場合には、精神状態、心理状態など)は捨象されることとなる。それは、太陽系の挙動を物理学的に記述する場合には、地球や太陽はいずれも「質点」として取り扱われ、太陽内の黒点の挙動や地球上の地殻変動等は捨象されることと同様である(無論、黒点や地殻の変動を物理学の対象とする場合には、また別の分析対象系が措定されることとなる)。

 こうした物理学的方法論の対極にあるのが、「解釈学的方法論」である。

 解釈学的方法論とは、ディルタイ7)やシュライエルマッハー8)、そしてハイデガー9)といった哲学者がその構造を哲学的に論述したものであるが、その方法論自体は、伝統的な歴史学や民俗学、文化人類学、はては芸術において標準的に採用されてきた古典的なものである。それはすなわち、物理学的方法論のように、特定の立場や主観を排した(と見なされる)「定量的」なデータで表現することそれ自体を目標とするのではなく(厳密に言えば、そんな定量的データもまた解釈の産物であり、特定の立場や主観から独立したものでないことは科学哲学では繰り返し指摘されているところであるが、この点についてはここでは詳しくは立ち入らぬこととしたいと思う)、明確に「解釈者」の立場を明示した上で、あくまでもその立場から、様々な現象を統一的に説明しうるような「解釈」を紡ぎ出すことを目途とするものである。

 無論、如何なる解釈であろうとも、その解釈は可能な一つの解釈にしか過ぎないという点は避けがたいものである。ただし、そうした一つの解釈を提示してみせることは、その解釈に触れた人々の認識や実践に少なからずの影響を及ぼすこととなる。例えば、「オレは男だ!」という解釈は、その解釈を為した人物の考え方や行動にいくらかの影響を及ぼすこととなる(「男として振る舞わねば」など)。あるいは、「どうせオレは臆病なんだ」という自己解釈は、自らの臆病な振る舞いに対する自責の念を緩和し、さらなる臆病なる振る舞いを誘発する様な効果を持ちうるだろう。そうなると、ある特定の解釈によって変容した特定の認識や実践は、さらなる次の「解釈」をもたらすこととなるだろう。例えば、「男は男として生きていかねばならぬものなのだ」とか「どうせ人間皆、臆病なのさ」といった解釈を誘発することとなろう。そして、そうした新しい解釈は再び新しい認識と実践を誘発し────という形で、「解釈されるべき対象」と「解釈の内実」は共に一方が一方に抜本的な影響を及ぼす、円環的、循環的な構造を有している。これが、「解釈学的循環」と呼ばれるものであり、解釈学的方法論の基本的な構造を示している。

 いずれにしても、物理学的方法論は兎に角、対象を数理的に記述し、それで「再現」したり「予測」したりする方法論である。一方で、解釈学的方法論は、新たな解釈を提示し、人間、あるいは、社会の動態そのものに直接的に関わりながら、その上でまた、繰り返し繰り返し新たな解釈を提示し続けるものである。つまり、物理学的方法論は、分析者は対象とする系の完全なる「外側」に立ち、あくまでも他者として、その対象を分析し、予測し、時に制御しようとするのである。その一方で、解釈学的方法論は、分析者そのものが、対象とする系の「内側」に立ち、その対象とする系の一員として、その系の動態そのものに直接関わろうとする方法論である。

 さて、こうした特徴を有する物理学的方法論であるから、それは太陽系、銀河系といった、分析者の挙動が対象に及ぼす影響が基本的に皆無に等しい様な対象については、大きな成功を収めることが可能である見込みが高いであろう。しかし、分析者が、当該社会の中に埋め込まれているという事実は否定できぬ所である以上、「社会科学」においては、そうした物理学的方法論が正当性を持つ根拠は実は極めて乏しいと言わざるを得ないところであろう。

 しかしながら、先にも指摘したように、今、自然科学のみならず、社会科学においてもまた、「物理学的方法論」が大きな影響力を保持し、日々、その力を増強させ続けているのが実態である。

 いずれにしても、20世紀には、社会科学界全体にこうした「方法論的個人主義」と「物理学的方法論」を是とする「全体主義的」と表現してもやぶさかではないほどの風潮が蔓延してしまったのであり、21世紀に入ってもそれらの力はかげりを見せる気配は見えていない。そして、今や、社会科学において「方法論的全体主義」に準拠したり、「解釈学的方法論」(しばしば、それは「物語アプローチ」とも言われる;c.f. 藤井聡, 201110)に準拠したりした論説に言及すれば、異端者、あるいは非道い場合には際物扱いされかねぬ様な状況にあり、そうした学術論文が査読を通過する様な可能性は、工学や経済学では言うに及ばず、心理学やあろうことか社会学においてすら必ずしも容易ではない、と言うような社会的風潮が形作られているという、「解釈」は十二分に成立しうるものと考えられる。

 このような状況である限り、交通研究に於いても方法論的個人主義や物理学的方法論に親和性の高い、(交通の「通」の字に対応する)「物理的な空間移動」が重視されることとなる一方、(交通の「交」の字に対応する)「有機体としての社会の動態」が捨象されてきたものと考えられるわけである(なお、交通研究の中でも近年、心理的側面やコミュニケーション過程を対象とするものも散見されるようになってきては居るのだが、それらはいずれも、詰まるところ、物理学的方法論と方法論的個人主義に準拠したものであり、解釈学的方法論と方法論的全体主義に準拠した上で心理的側面やコミュニケーション過程を取り扱うものは見られない。詳細は、中野(2012)を参照されたい)。

 

「交通」が、有機体としての共同体・地域・都市・国家の有り様を決定づけている

 いずれにしても、交通という現象は、「通」が含意する「物理的空間移動」のみならず、「交」が含意する「社会的動態」を含むものなのである。しかも、先に紹介した小島(1930)が論じたように、「物理的空間移動」はあくまでも、「社会的動態」によってもたらされた派生的なものにしか過ぎないのである。だからこそ、「交通の政策」を通して、よりよき地域や社会や国民国家の形成を企図するのであるなら、目に見える物理現象としての交通にだけ着目するのではなく、その背後に潜在する、当該の物理現象としての交通を生み出している「社会的動態」をターゲットに捉え、それを「健全化」せしめることを企図する態度が全ての基本となる。

 では、その「社会的動態」とは一体何かと言えば、これは、物理学的方法論を活用している限り、そして、方法論的個人主義に拘泥している限りは、永遠に理解することなどできないであろう。それを理解するためには、物理学的方法論ではなく解釈学的方法論を、そして方法論的個人主義ではなく方法論的全体主義を、少なくとも部分的にでも採用しなければならないであろう。そうすることによってはじめて、例えば、「まちの賑わい」や「まちの活力」に資する交通政策のありかた、あるいは、交通まちづくりのあり方を考えることができることとなるのである。

 もちろん、物理学的方法論において措定しうる商業売上額や、入れ込み客数などのデータが、「まちの賑わいや活力」と関連する指標であることは間違いないであろうが、それらがどれだけ多かろうと、例えば、その街の歴史や伝統や文化と何の関係もない、外国企業のディズニーランド的なものによって、その施設の塀の中だけの商業売上額や入れ込み客数の数値が良好なものであったとしても、その地の「まち」に賑わいや活力が良好だと言うことは言えないであろう。つまり、そういう物理的な尺度は、「賑わいや活力」を測る上での参考情報になることはあったとしても、賑わいや活力そのものに直結するものなどではないのである。

 そもそも、「賑わい」とりわけ「活力」という言葉は、「生命体」「有機体」に対して「しか」使えぬものである。機関車やクルマがどれだけ激しく活動しようとしても、それをして「活力がある」と表現することはできない。つまり、「まちの活力」という言葉を表現するためには、どうしても、少なくとも潜在的には「まち」というものを一つの有機体と捉えざるを得ないのである。つまり、街の賑わいを議論の対象とするのなら、「社会有機体説」に準拠せざるを得ないのである。

 そしてそうなると、どれだけ素晴らしい数式を編み出そうが、「生命」を表現することなど不能である以上、「まちの賑わいや活力」を視野に納めた議論を展開しようとするなら、「物理学的方法論」を放棄した上で、その有機体としてのまちの「生命」や「活力」を、歴史学的、民俗学的、社会学的、文化人類学手的、さらには文学的な表現も含めて「解釈」し続けなければならないのである。

 当然ながら、この議論は、「まちの活力」という地域的レベルの議論においてのみ当てはまる話なのではない。

 例えば、「太平洋ベルト」というメタレベルの広域都市圏は、東海道新幹線という大動脈によって育まれた、ひとかたまりの「有機体」である。

 その一方で、「太平洋側」には国土軸が整備されておらず、それ故、それぞれの街々が個別に存在しており、一つのかたまりとしての「有機体」を形成することに成功していないと言うことができるだろう。同様に、九州も一つの「有機体」を明確に形成しているのではなく、分散的にそれぞれの街が形作られているに過ぎない。

 そして、そのようなかたちで広域の有機体が形作られれば、その内部において固有の「文化」や「風習」「風俗」が形作られるということを意味する。

 例えば、「関西」というのは一つの広域文化圏を形作っているが、その文化圏は、京都、大阪、神戸と言った大都市がそれぞれ固有性を持ちながら「交じり合う」ことを通じて作り上げられている、固有性を持つ独特なる文化圏となっているのである。

 あるいは、「北海道から鹿児島まで新幹線を通すことで、日本が一つになる」という象徴的な表現がしばしば言われることがあるが、これは、日本全体を一つの「有機体」と見なす考え方、いわゆる「ナショナリズム」に基づく言説である。そして、その日本という一つの有機体の(社会学においてしばしば重要な概念とされる)「凝集性」を高めるために、新幹線が重要な役割を担うであろうという様に解釈できるわけである。

 同様の事が、例えば、リニア新幹線の整備計画にも当てはめることができる。例えば、東京と名古屋の間でリニア新幹線を整備し、そのままの状態で10年間、15年間と放置すれば、東京名古屋間の地域は、「東部太平洋ベルト・メガロポリス」とでも言うべき大きな一つの有機体としてさらに大きく成長することとなるだろう。その一方で、リニア新幹線が不在の京都や大阪は、その「東部太平洋ベルト・メガロポリス」の外側の都市ということとなり、これまでの「太平洋ベルト」としての一体性が低下することとなり、そして、京都や大阪の街は大きく凋落し、一つの有機体としての「関西」の活力は、徹底的に脆弱化していくこととなろう。

 以上の議論は主としていずれも「都市間」「地域間」の交通の意義に関わるものであったが、「都市内」「地域内」の交通の有り様もまた、その都市や地域の有り様に甚大なる影響を及ぼすものである。

 例えば、都市や地域といったそれぞれの「有機体」の内部の交通が、クルマを中心とするものであるなら、おのずと郊外化を空洞化が進み、シャッター街化を典型とする、都心分の活力低迷がもたらされることとなる一方で、適切な公共交通が整備されれば、都心に人々が多く訪れ、都心の活力、賑わいが活性化していくこととなるわけである。

 ───この様に、交通政策は、それぞれの地域の共同体やまち、そして、都市圏や広域地域、はては国家そのもの「活力」に決定的な影響を与え、時に、それぞれの地域やまちの「まちの生命」そのものを絶ってしまうことともなりかねぬ程の重大な責任を持つ、公的政策なのである。しかも、それぞれの地域的な有機体の活力と生命に関わるばかりではなく、その有機体の「かたち」そのものにも、重大な、というよりもむしろ、決定的支配的絶対的な規定力を、交通政策が担っているのである。「九州が一つ」になるのかそれともバラバラの都市が単に隣接しあっているだけなのか、日本という国が、単なる複数の地域の寄り合い所帯となるのか、それとも、一つの大きな「国家」という「家」としての固まりを持つものなのかは、「交通」によって左右されているのである(無論、「通信」によっても、その有機体のかたちは左右されるものであるが、「交通」がもたらす人間同士の実際的な交流は、通信ではもたらし得ない「交わり」を、もたらすものなのである)。さらには、都市内、地域内の交通が、大量に人々を中心部に集約させうる公共交通を中心としたもので供給されている場合には、自ずとその都市・地域の凝集性は向上し、その活力を増進せしめ、「健全化」させることに成功する見込みが高まる。その一方で、過剰に自動車に依存するかたちの交通が普及しすぎると、自ずとのその街の凝集性は低下し、活力は低下し、まちなかの「有機体」の健全性は低下して行かざるを得なくなるのである。

 

我が国にも適正な交通基本法の制定を

 いずれにしても、日本国政府の目的が、日本国家の永続的な「誇り」ある「安泰」と、日本国民の「誇り」ある「安寧」なる暮らしの永続であるとするなら、「交通基本法」は、そうした究極的な目標に資する、「交通」に関わる行政政策の展開を促すものでなければならない。そして、そんな施策を考える上では、アカデミズム界の全体主義的な風潮はさておき、私たち国民が常識的に「交通の政策」に、本質的に求めているのは、単なる「物理的な移動の円滑化や保障」なぞではなく、まちや村、地域、都市、都市圏、広域交流圏、そして国家といった様々なレベルにある「地域的な有機体/共同体」(すなわち社会的動態)の「活性化」や「健全化」、さらに言うなら「存続」そのものであるという点を、忘れてはならないのである。前者の物理的な移動の円滑化や保障という目的は、後者の「地域的な有機体/共同体の活性化、健全化、存続」のために求められているのだという点を忘れてはならないのである。

 そうである以上、日本全体、ならびに、それぞれの地域の「共同体(コミュニティ)」あるいは、「共同社会」の「健全化」「活性化」「存続」のために様々な交通政策を展開しなければならないという結論を導き出すことが可能となろう。

 はたして、現在の日本の交通基本法は、こうした論理構造を有しているのであろうか───もしも、それが旧来のアカデミズムの全体主義的な風潮の中で作り上げられてきてしまった「物理学的方法論」と「方法論的個人主義」に過剰に準拠したものであるとするなら、その基本法は、国民の潜在的な「願い」から乖離した施策を展開してしまい、結局は国民の幸福を棄損するものとなってしまいかねないであろう────。

 筆者は、現在の交通基本法案の内実について論評することは控えるが、万一、現法案が、ここで論じているあるべき姿から乖離しているとするなら、具体的な法案の再検討作業において、本稿に示した論考が参照されることを強く祈念いたしたい。

 なお、本稿の考え方に基づいた「国内交通基本法」が整備されている国がある。

 フランス、である。

 ちなみに、筆者は、フランスの国内交通基本法の制定経緯を踏まえて本稿を書いた者ではない(そして当たり前だが、フランスの国内交通基本法は、筆者がこうした議論を考え始めるはるか昔に制定されたものである)。つまり、筆者が論じたこの論考とは全く無関係なところで制定された交通基本法が、全く同様の理念に基づくものとなっている、ということなのである。

 これは何も不思議な事ではない。

 むしろ、当然の帰結だということも言えるであろう。

 なぜなら、本稿の議論は、社会科学の伝統的な系譜を踏まえ、ここ一世紀ほどの、一種異様とも言える近代経済学アプローチに見られる「方法論的個人主義/物理学的方法論」に対する過剰なる学術的偏重の歴史を見据え、適正なる交通に関する社会科学的認識に基づいてとりまとめたものだからである。そして、もしも、フランスの法体系が、そうした伝統的な適正なるバランス感覚の下で採択された社会科学的知見に基づいて構成されたとするなら、筆者の議論と同様の論理構成を持つ交通基本法が制定されることは、至って必然的な話だと言うことができるだろう。

 さて、そのフランスの国内交通基本法であるが、その基本的な考え方が記されている第一条は、次のようなものである。

 

 国内交通体系は、

 ・ 共同社会にとって経済的、社会的、環境的な面からもっとも有利な条件の下に利用者の必要を満たさなければならない。

 ・ 国民の団結及び連帯、国防、経済的及び社会的発展、均衡のとれた国土整備及び持続可能な発展、国際交易特に欧州域内交易の発展に貢献するものとする。

 これらの要求は、交通事故やその危険性、特に騒音などの公害、汚染、温暖化ガスの排出等の制限・減少を目指すことを尊重しつつ、

 ・ 移動制約者を含む全ての利用者の持つ移動する権利及びこれに関して交通機関を選択する自由

 ・ その財貨の輸送を自ら実施するか又はこの輸送を自己の選択する交通機関に委託するに当たって全ての利用者に認められる権利

 を実現化することによって満たされる。

(※ 以上、強調箇所は、筆者による)

 

 お分かりいただけたであろうか?

 日本ではとかく、この第一条の後半部分の「移動権の保障」ばかりがクローズアップされ、喧伝される傾向が強いように思われるが、ご覧の様に、「移動権の保障」は「目的」なぞではなく、あくまでも、前段に記載されていることの「手段」となっているのである。

 では、その、交通政策の究極的な目標が書かれている前段はどうなっているかというと、ご覧のように、1)「利用者の(移動に関する)必要」を満たすということのみならず、2)「共同社会」の利益の「保障」すること、そして、3)「国民の団結及び連帯、国防、経済的及び社会的発展、均衡のとれた国土整備及び持続可能な発展、国際交易特に欧州域内交易の発展に貢献する」という、明確なナショナリズムに基づく「国益の増進」のそれぞれを企図するものとして、交通体系が整備・運用されるべきだと謳われていると解釈できるであろう。

 つまり、移動についての「個人」、「地域社会」と「国民国家」の要求の三つのレベルの要求に答えるための法律として、フランス国内交通基本法が制定されているわけである。上記のように難解な文章となっているのは、この3つのレベルの「有機体」の利益がそれぞれ複雑に関連しあっているからだと言うことができよう。

 ただし、この交通基本法は、それぞれの有機体の利益の増進(活性化、存続、健全化)を図るためのアプローチとして、「物理的な移動の円滑化/保障」を図るという一点を強く強調するものとなっている点については、改善の余地はあると言うことができるだろう。

 なぜなら、先にも指摘したように、ただ単に移動の自由を保障するだけでは、時に、特定の共同体の有機体の利益が低減してしまうこともあるからである。無論、その点に対する配慮として、移動の自由の保障に対して、「交通事故やその危険性、特に騒音などの公害、汚染、温暖化ガスの排出等の制限・減少を目指すことを尊重しつつ」という一定の留保規定が記載されているわけであるが、移動の自由の保障によってもたらされる弊害は、こうした環境的問題だけではないことは、21世紀の今日は広く知られているところである。それは、上に述べたように、過度なモータリゼーションの展開によって、まちや地域が深く傷つく様な問題が生じているという点である。それ故、「個人」、「地域社会」と「国民国家」の要求の三つのレベルの要求に適切に答えるためには、時に個人の移動の自由に制限を掛けることも求められるということが考えられる訳である。

 おそらく、この法律が制定された1982年当時にはそうした問題意識が十分に世界的に共有化されていなかったのかも知れないが、21世紀の今日、そうした認識は世界的に共有されているものと言えよう。そしてその結果として、自動車利用に一定の制限を課するロードプライシングや自動車流入規制などの政策が採用されてきているのである。さらには近年では、そうした「自由の抑制」を、外的な権力で実施するのではなく、個々人の自主的な「倫理観」に訴えかけることで、「自主的に、自らの『自由(freedom)を制限する』という自由(liberty)」をより大きく保障するための新しいタイプの交通政策として「モビリティ・マネジメント」(藤井・谷口、200811)参照)が展開されてきているところである。

 いずれにしても、基本的な理念としては、社会有機体説を十二分に踏まえた、フランスの交通基本法の考え方を踏襲しつつも、今日的な課題を踏まえつつ、新しいタイプの交通政策であるロードプライシングやモビリティ・マネジメントなどの政策の遂行を強く奨励する様な形式も含めたかたちで、すなわち、フランスの交通基本法の法学的な考え方(フランス固有の微細な議論ではなく、上述のような基本的な社会科学的な論理構造)を踏まえ、それをさらに適正化し、発展させるかたちで我が国に適切な交通基本法が設定されることが叶えば、我が国は、「交通政策」という一つのアプローチでもって、まち、地域と国民国家といったそれぞれのレベルの共同体を適正化し、活性化し、存続させ、国民国家自体を永続的な誇りと安泰を保障させることに支援できると共に、それを通して、誇りある安寧なる暮らしを我が国国民が享受できる状況を成立させることができる可能性を得る事ができるであろう。

 いずれかの時期にて、我が国国民を代表する議論の場である国会にて交通基本法について議論されることがあるとするなら、その議論の場を通して、以上に論じた方向にて我が国日本の交通基本法が成立せんことを、心から祈念しつつ本稿を終えることとしたい。

 

 

参考文献

1)樗木武,井上信昭:交通計画学, 共立出版, 1993.

2)太田勝敏:交通システム計画, 技術書院, 1988.

3)土井正幸,坂下昇:交通経済学, 東洋経済新報社, 2002.

4)中野 剛志:C・H・クーリーの「交通」の概念:交通研究における相互行為論的アプローチの導入に向けて, 土木学会論文集D3, 68 (1), pp. 30-42, 2012.

5)島田孝一:交通論, 千倉書房, 1937.

6)小島昌太郎:交通経済論, 日本評論社, 1930.

7)ディルタイ(著), 久野昭(訳) : 解釈学の成立, 以文社, 1981.

8)シュライエルマッハー(著), 久野昭, 天野雅郎(訳): 解釈学の構想, 以文社, 1984.

9)マルティン・ハイデッガー (著), 桑木 務(訳)存在と時間,(上)(下),岩波文庫,1960.

10)藤井 聡, 長谷川 大貴, 中野 剛志, 羽鳥 剛史 :「物語」に関わる人文社会科学の系譜とその公共政策的意義, 土木学会論文集F5, 67 (1), pp. 32-45, 2011.

11)藤井 聡・谷口綾子:モビリティ・マネジメント入門:~「人と社会」を中心に据えた新しい交通戦略~,学芸出版社,2008.