藤井聡:今、この時代に、「まち」を良くするために必要なこと

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バスを軸にした環境にやさしい交通まちづくり中部EST創発セミナー

「クルマと公共交通のかしこい使い方」講演録

平成24年1月18日(水)  於岐阜市文化産業交流センター

 

今、この時代に、「まち」を良くするために必要なこと

 

京都大学大学院 都市社会工学専攻 教授 藤井 聡

 

「人間が大事」というのと「まちが大事」というのは同じこと

 公共交通の勉強会の冒頭、いきなりで恐縮ですが(笑)、「大事なのは公共交通ではない」というところからお話をしたいと思います。

 大事なのは、当然ながら人間であって、まちが大事なんです。

 で、人間とまちというのは、これは不可分です。

 人間があってまちがあって、まちがあって人間があるんです。

 ある一つの何というか社会みたいなのがあって、それを「ミクロに見たら人間」になりますし、「マクロに見たらまち」になるということなんです。

 で、もっとマクロに見ると国になって、ミクロに見ると国民になる───ということでいわば、家とその家族のメンバーの関係と一緒なんですね、国民と国っていうのは。

 で、「家」というのと「家族」というのは不可分です。

 個人が集まって家があるんじゃなくて、家というものと家族のメンバーというのは────これは哲学的に言うと、同時相即的と言うんですが────コインの表と裏のように、一緒に浮かび上がってくる、というものなんです。

 コインの表と裏というのは、表だけ切り離したらまた裏できますから、結局、表が出来るときには裏が出来る、ということで、こういうのを、同時相即的、というんですが、要するに家と家族のメンバーというのも、そんな風にして「同時」にできるもので、一方が先にあって他方ができる、ってもんじゃないんですね。

 で、だから、「人間が大事」というのと、実は「まちが大事」というのはこれ一緒なんですよね。

 まずここから多くの論者が間違えています。

 主に経済学部系で、そこの「経済学村」でずっと研究している人は、どうも「人間が集まってまちができている」って考える節があります。大間違いであります。

 ふるさとがあって人間があるんです。人間があってふるさとがあって。

 だから、ふるさとが津波によってつぶれるということは、それはもう人間が殺されているのと同じであります。

 人間が生き残って良かったな、それはよかったです。

 なぜかっていうと、人間というものが残っていると、ふるさとの一番小さい単位ですから、だから、人間のたたずまいが残っているだけでまだふるさとが若干残っているということですから、だから、その小さな種に基づいてまたふるさとをつくっていくということができるということはあるんです。

ヒューマニズム、人間の命があればそれでよいというくせに、ふるさとなんて、エコタウンに作り替えりゃいいやないか、そういうのが今まかり通っているわけです。

 

真面目に「まち」「むら」に向き合った柳田国男

 柳田国男という有名な方がおられます。

 この柳田国男は、こういうことにごっついむかついて、あんなフォークロアって英語で言いますけれども、民俗学を始めた。

 彼はもともと官僚であります。官僚、役人であります。役所の人間であります。皆さんも役所の方がおられると思いますけれども、柳田国男も、単なるといいますか、学者じゃなくて役所の人間だったわけです。別に学者をやろうと思っているわけでも何でもない、ただの農林水産業の農政官僚です。それでまじめに仕事をするということは、農業の仕事を行政としてまじめにやるということは、農業を一生懸命もり立てるということなんですけれども、究極的には農民を救うということが重要なんです。

 今申し上げましたように、農民を救うということと、農村を救うということは、コインの表と裏と全く同じことなわけです。

 農村をつぶしてエコシティを作ったら、農民死んじゃうんです。

 特区を作って、漁業で株式会社を作ってやろうということを言う某知事おられますが、東北に、その人の言うようにやると、あれはもうふるさとが死んじゃうんです。

 あれはもう完全に間違いなんですが、そういう発想を柳田国男は全くしていないんです。

 徹底的にあの人は、人間の本質というものを、心で分かっていたんです。

 頭じゃなくて魂で分かっていたんです。

 なぜ分かったか、まじめだったからです。

 要するになぜ某知事さんがそれ分からないか、不真面目だからです。真剣じゃないからです。その自分の職業に対して真剣であれば、そこにいる人間に対して、あ、この人間のことを一生懸命、その人の立場になっていろいろ考えていると、その人とふるさとというものは不可分だということが見えてきます。

 某知事さんが人間じゃないという可能性もあります。実は、ロボットか何かもしれません(笑)。某(なにがし)塾というのはロボットか何かを作っているのかもしれませんね。多分人間だとすると、あとはもう考えられるのは不真面目だからとしか言いようがないです。証拠に、絶対自分の息子に関しては、ものすごく一生懸命やると思います。家の何かを大事にしたりとか、自分の身の回りの風習とか、そういうのはものすごく守ろうとするに決まっています。何でかといったら、自分の息子に対しては真面目になります。

 真面目って、真正面の真に、面と向かって目を見るんです。子供がここにおるわけです。そうしたら、この子のことが大事だと思うわけであります。そうなると、その人間というものと、ふるさととか、町とか、村とかいうものとが不可分であるということが分かるんです。

 さて、柳田国男は、そうやって農政官僚として、農政官僚の仕事に対して真面目に向き合います。それで、一生懸命農業の人を助けたい、農民を助けたい、農村を助けたいと思うあまり、「もうちょっとこんな行政をやっていても、この人ら助けられへんわ」と思うんです。

 当然ながら、行政が不要だと言っているんじゃないんです。

 行政は絶対に必要なんだけれども、彼が必要だと思うことをやっている人間がいなかったからです。いたら、その人にやってもらったらいいと柳田国男は思っていたはずです。だから、官僚の仕事は私じゃなくても誰かがやるやろと思った。でも、私が今やろうと思った、柳田国男ですよ、私がやろうと思う仕事は、誰もやっていない。だから「え?わしやらなあかんのか?おい」ということになった。

 その時に「面倒くさ」と思ったかどうか知りませんけど、普通の人間だったら、面倒くさと思います。「ひやーっ、面倒くさ」と。

 それで、現地に入ったりとかして(エスノグラフィーっていうやつですね、最近の社会学的で言うところの)じいちゃんとかばあちゃんの話を聞いて、それを書き残していくんです。

 彼は、もともと、いわゆる職業的な「学者」じゃないですから、それが何とか理論に基づいて、エスノグラフィー理論に基づいて、こうやってうまくいくだろうなんていう知識は多分無かったと思います。

 ただ、農政官僚者として地元に入っていろいろ話を聞いていると、何かどうやらおじいちゃんとかおばあちゃんの話聞いているだけで、このじいちゃんとかばあちゃん、めっちゃ元気になっていくなとか、あるいは話を聞いたことをちょっと書いて何か読ませたら、それで若者がえらいやたらと張り切り出すなとか、なんや、こういうことをやった方が農政官僚でやるよりも、何かええんちゃうかと気付かはったんです。

 何で気付いたか。

 真面目だったからです。

 一生懸命その農民のことを考えていたんです。

 

民俗学的が暗示する、「まちづくり」の本質──その街の「マグマ」の噴火

 何で私こんなことを知っているかというと、彼の直系の弟子とよく話をするからです。

 直系の遺伝子が流れている人の話を聞くと、そういう話をバーッと、お酒を飲んでいても、言ってくれるんです。あ、なるほどな、そういうことなんやと思って。

 さて、その柳田国男。柳田国男はとにかくもう助けたい、助けたいっていう、もうそればっかりなんです。だから、その私の友人からいつも聞くのは、彼は、ちょっと正確な美しい日本語は忘れましたけれど、「農はなぜ貧なのか」と、と言うんです。

 「何で農民はこんだけ貧乏なんや。なんでこんだけ農民貧乏なんや。これ、何とかしてあげたい」とこう思わはったわけです。それで、とにかく話を聞いて、そのおじいちゃんとかおばあちゃんが話をしだす───皆さん何かこう、そういう経験あるんじゃないかと思いますが,昔話をこうしているとですね、何かだんだんだんだん思い出してきて、ずうっとこう何か、それこそしつこく聞きます,もうめちゃめちゃしつこく毎日聞きます,そうしたらもう何か、70ぐらいのおじいちゃん、おばあちゃんが、13とか14ぐらいの若いときのころを思い出してくるんです────そういや、あそこは何か今こうなっているけど、こうやって、若いのがこう来て、こうやっとったな。そういや、そうやっていたよな。そういや、そのとき、あんときこんなことがあって───ぶわーっとこう、何かこう、泉から水がわき出るようにうわーっと話が出てくるんです───。

 柳田国男はあまり科学者的なことを言わないですから、こういう言い方はされていないかもしれませんが、何かそこに「命」の───何ていいますか───「炎」があるんです、「マグマ」みたいなものが、そのふるさとや村には───。

 それが、何か世の中世知辛いですから、東京的なるものが来たり、ちょうど「東京物語」の東京的なるものです。年輩の方以外知らんかもしれません。原節子がべっぴんの「東京物語」というのがあるんですけれど、尾道に合った美しい風情と、東京にある、どうしようもない、くだらない風景があるんですけれども、その尾道的な、なんか本当に命のある、何かこう、何ていいますか、エネルギーがあるんです、人間の魂、民族の魂みたいなエネルギー────。

 これはもうね、経済学理論では絶対言えないんです、物理学では100%表現できないんですが、誰もが分かる、まじめに生きている人間であれば誰もが分かるエネルギーみたいなものが、そこの町とか村にはあるんです。

 ですが、東京的なるものが来て、何かニヒリスティックなものが来て、何か経済的なもの、新自由主義的なものが来て、TPP的なるものが来て、グローバル企業的なるものが来て、経済学的なるものが来て、物理学的なるものが来て、何かそういうニヒリズム的なものが来ると、だんだんだんだんと────命は、生きている限り無くなりはしないんですけれど────「隠ぺい」されていくんです。

 こういうことを民俗学ではとりあつかうわけで、ここら辺が民俗学の素晴らしいところです。彼らは学者としてこういう「表現形」を作り出すんですね。

 文化人類学でもそうですけれど────もうちょっと文化人類学者だと、構造主義とか言って、レヴィ・ストロースとかって、何か数学を使ったりとかしますが───。

 ま、とにかく、何か命みたいなものがあって、それに何か冷たいものが覆い被さって。

 70年も生きていると、世の中世知辛いですから、おじいちゃん、おばあちゃん、忘れるんです。どこかにくすぶり続けているものがあるんですけれど、いや、もうしょうがない。日本人はすぐしょうがないって言います。しょうがない、しょうがないといって、隠ぺいしていくんです。それを民俗学者がああなのか、こうなのかと聞いていくと───何かここが、もうマグマと一緒です、地震の噴火と一緒です───こう、太い、太い、ニヒリズム的な、ニヒリスティックな地殻、もう冷め切った地殻を突き抜けてマグマが「噴火」するんです。

 そこからまちづくりが始まる。

 

 これが民俗学的アプローチなんです。

 

 知らなかったでしょう(笑)?

 実は私も知らなかったんですよ、友人の民俗学者に聞くまで(笑)。

 

 へー、そうなんやと思って、何か民俗学いうたら、何かもっと博物館みたいなものかなと思っていましたから。こんなのがありました、あ、そうでっかみたいな。

 

 でも本当は違うんですよ、民俗学というのは。

 そこに埋まっている、土地に埋まっている命のマグマみたいなものを噴火させるアプローチなんです。

 柳田国男はそれに、直観的に、本能的に気付いたんです、真面目だから───まあ、頭も良かったんでしょうけれど───「真面目だから」気付いたんです。

 

「慈悲炉」───柳田国男が心に宿したもの

 ところでその柳田国男がごっついむかついていたことがあるんです。

 それは、農はなぜ貧なのか────「何でやなん、何でこの人は貧乏なんだ」ということについて───。

 それはかわいそうとか、何かそんな日本語じゃないです。あ、かわいそうとか言って。うん、そうなんだ、かわいそうみたいな、そんなんじゃないんですよ、多分、何か。

 もう何ていいますか───「菩薩」な感じなんでしょうね。外人には何と言ったらいいか分からないんですけれど、「菩薩なもの」というかなんというか、こうね、何なんでしょうね、「慈愛」というか「慈悲」というか、何というか、そういう「魂」か、柳田国男には何かあったんでしょう。

 ただ、これは、真面目だったら出てくるかどうか別なんです。

 そういう慈悲を持てる人間の心というのは────「慈悲のための原子炉」みたいなのこころの中ににあって、いわば「慈悲炉」みたいなもの(笑)があって、その「慈悲炉」の大きさというのは、実は人間が生まれたときから、決まっているような気がします。それはいろんな人間を、教育者という立場でみていると、ホントによく分かります。慈悲炉の大きな子と、小さな子がいるということを────とにかく、何か慈悲炉みたいなものがあるんです、原子炉みたいな慈悲の炉。

 それが、柳田国男は、ごっついあったんです。

 それで、もう何か、かわいそうとかじゃなくて、何かもう助けてやりたくて仕方がなかったんです。

 

 これ、ちなみに言いますと、南無阿弥陀仏な感じと一緒です。そういう、これは鈴木大拙にいわせれば「日本的霊性」という奴ですかね、鈴木大拙先生は、その日本的なそういう何かこう「慈悲炉」みたいなものができたのは、大体鎌倉時代だというんです。

 すごい話ですね。

 鈴木先生曰く、鎌倉時代以前には無かった────面白いなと思います。

 

「家殺し」───柳田国男が最も憎んだもの

 さて、その慈悲炉を持った柳田国男が最もむかついたもの、これは人殺しじゃなくて、人殺しごときでは柳田国男は、まあ、それでも怒っていたでしょうけれど、それよりもっと怒っていたのは「家殺し」なんです。

 今もいろんな、平成日本はそこら中で家を殺しまくっています。

 核家族化というのは、これはもう「家殺しの装置」みたいなものです。

 だから、文化住宅なんて、あれも「家殺し装置」みたいなものです。あれ、おじいちゃんとおばあちゃん住めなくなっています。文化住宅って、若い方、あまり分からないかもしれませんけれど、あれは基本的に何か核家族っておしゃれじゃん、みたいな風潮が高度成長期には有って、ああいう住宅政策で文化住宅というのをやって核家族化を推進したんです───墓参りなんて古臭いじゃんみたいな感じになって、家というものがあっちこっちでバタバタと死んでいったんです────それに対してものすごく柳田国男は、ふざけるな!よ、こら、あほんだら!と。まあまあ、もっとお上品に怒ってはったと思いますけれども、感情的に表現すると、「ふざけるなよ、こら、おまえ!」と、むかついておったわけです。

 なぜかっていうと、人間というものよりも、例えば猫、いや、蚊っているじゃないですか、蚊───私はまちづくりに話つなげたいから、ここまで深いところから言うているんですけれど───例えば蚊がいるじゃないですか。パチンと殺すでしょう?

 でも、これ一応一寸の虫にも五分の魂、一応魂があるんですけれど、まあまあ、殺すじゃないですか。ね?よっぽど慈悲深い人は、かわいそうやなという気持ちは――あ、私の友人というか、知り合いで、むちゃむちゃ慈悲深い芸術家がいて、彼は蚊のことも慈しんでいます。さすがは、何といいますか、芸術家やなと、世界的な芸術家で、今どこか外国へ行っています。彼は、蚊がいて、「蚊だ」とか言ってね、蚊がもう猫ちゃんみたいにかわいいみたいですよ、なんか。ま、北海道の人やから、蚊はあんまりおらんのかなとか。そんなことないか、ちょっと分からないですけれど。ま、でも、普通の人間の感受性からいくと、蚊ぐらいはパチンと殺してもあんまり何とも思わないですよね。

 でも、猫をバチンと殺したら、ちょっと何か、気重たいですよね。

 それ、鳥とかやったら、ちょうど真ん中ぐらいですかね───鳥、バチンと殺しても、何かちょっと気悪いけれど、まあまあ、いいか、と。

 でも猫だったら、ちょっとあれですよね───。

 これがまた人間になると、何かごっついブルーな。でも、どれだけブルーになるかっていうのを想像すると、もう何か、これから何十年も、これから生きていくのが嫌になるぐらいブルーになるじゃないですか。

 ───これはどういうことかっていうと、生き物というか、命の大きさみたいなものがあるということなんです。

 イメージで言うと、魂の大きさみたいなものが、蚊はちっこいんです。音もちっこい、プーンいう感じですからね、ちっこいです。

 でも、鳥って、それよりもうちょっと大きいです。だから、まあ、何か、魚はそれの真ん中ぐらいです。だから、魚釣りって行ける。

 鳥釣りって、何かちょっと気持ち悪いでしょう?何か、カーカーとか言って鳥釣っていたら。

 魚釣りぐらいやったら、まあ、私もしょっちゅう釣りしますから、何か、あれは魂の大きさか、魚って、何か目も、ずっと同じ表情ですね、こうやって。すぐ食べますし、だって、魚はもう死体をそのままそこに乗せて食べますよね、「お頭付」ってありがたく日本人食べていますから、死体をそのまま丸々乗せて(笑)。

 まぁ、要するに、何か魂の大きさみたいなものが、人間というのは何か、その大きさが分かる装置みたいなものをもってて、蚊はちっこいけど、魚はもうちょっと大きくて、鳥はそれよりもうちょっと大きくて、猫になると相当でかくって、人間でもっとでかいという感じなんですね。

 それでいくと、家ってもっとでかいんです。

 だから、柳田国男は、人殺しよりも家殺しを徹底的に憎んだんです。

 それでいくと、私は何でこんな話をしているかというと、柳田国男のこの論理をひろげていくと、さらに「村殺し」って、もっとえげつない殺しなんです。

 さらに言うと、「ふるさと殺し」なんて、もう絶対に許せないわけです。

 最も許せない殺しは「国殺し」です───でも、やりまくっていますよね、今の日本人は。今の政権とか含めて(笑)。

 とはいえ、人殺しは犯罪になるんですが、家殺し、村殺しは、いわゆる法律違反の犯罪にはならないんです、ですが、柳田国男の論理からいくと、何ていいますか、家殺ししているやつとかは、人殺ししてる奴よりもっと悪い罪をしているわけです。

 ふるさとがつぶれて、津波でぶっつぶれて、そこで何もせんと、ふるさと再生とか、何も言わんと、エコタウンとか言っているやつ───これはもう、殺人者なんかよりももっともっとひどい輩なわけです。

 さらに、国殺しって、もっとえぐいわけです。としたら、国殺しをやっていたりとか、例えば法律で言う「外患罪」っていうのがあるんですが、これ、国をつぶそうとする犯罪、これ、「殺人より重い」って、日本の刑法でなっているんです。ほとんど日本人知らないんですけれど、レイプよりも、集団レイプよりも、殺人よりも重いのが「外患誘致罪」なんですね。

 刑法の、法学的に言うと、法の精神から言うと、国殺しというのは一番重たい罪になっているというのがあるんです。実際に、外患誘致罪は即刻「死刑」なんですね。

 だから、ふるさと殺し、あるいは死んでいるふるさとを放置するというのはこれ、もうはっきりいって、法の精神から言うなら死刑なんですね、法の精神から言って───というふうに、柳田国男の理論からは演繹されると。そんあコトしている筆を、死刑にしましょうと言っているわけではないですよ(笑)、あくまでも理論的に言うと、そうなりますよということを学者として言っているだけであります。

 

「生き物」である、「まち」「ふるさと」を殺め続ける現代日本人

 いずれにしても、まちづくりをやるとか、都市計画をやる人間というのは、今私が申し上げたことを120%理解しておかんと駄目なわけです。

 それを理解していないから、エコシティとか言っておるわけです。

 ふざけるな!です。

 

 もうホントに全然ふるさと再生な感じが3.11以降ない。

 もう私は日本人のことを幻滅しました。

 あ、なるほど、おまえら、そういう気かと───あ、ここにおられる方は違うと思いますけれど、平均的な日本人に対してありますけれど───おまえら、そういう気か、ああ、分かった、これから、おまえらは知らんぞ、人殺ししやがって、みたいに感じた訳ですね(笑)。だって、死んでいる人を助けにゃあかんわけですから、人殺しに等しいです、倫理的に言うと。

 とにかくそんな、津波でぼろぼろになったふるさとをほうったらかしにしておくというのはもう、「家殺し」以上───柳田国男だったらもっとむかついています、「ふざけるなよ、もう、こら!」みたいな風に───柳田国男的精神から言ったら、どう考えても許せないわけです。

 

皆がクルマを使うから、日本中の「まち」がきづ付いた

 さて、まちづくり───なぜ、今の「まち」が傷ついたか───今ごっつい日本中傷ついているわけです。

 被災地は、津波でつぶれました。

 被災地つぶれましたけれども、もう大変じゃないですか。

 岐阜もこの間、柳ヶ瀬って言うんですか、あそこの旅館とか行きましたけれど、何か楽しいところです。楽しいところですけれども、「えらい昔に比べると寂れてまんねん」言うてはりました。「もう全然駄目ですわ」と。

 それで、東京とか一部の例外は、まあ、あるんですが。

 私の生まれ育った奈良県の生駒市というところは、大阪のベッドタウンみたいなところで、もともと城下町っていうか、門前町であったんですけれど、近鉄線ができて、そこでベッドタウンとしても開発していたので、どっちの意味もあって、まあ、どっちもだんだん発展していったところで、そういう例外的な人口が増えたところとかあるんですけれど、まあ、もうそういう例外を除いてもう、全部駄目です。

 全然、これは私が申し上げるまでもなく、皆さんの生まれ育った場所も、皆さんが今お仕事されている場所も全然駄目になっていることでしょう。

 うちの母親の実家の高松の琴平電鉄沿いの岡本という駅前なんか、何かぼろぼろになっています。

 何にもないです。

 

 何でか───。

 いろんな言い方ありますけれども、ここに書いていますように、なぜ傷ついたかいいますと、「みんなが公共交通を使わずに車を使うから」です。

 

まちは「生き物のようなもの」じゃない、「生き物そのもの」だ

 当たり前じゃないですか、そんなのね。

 これはもう言うまでもないです。

 要するに今申し上げたのは、先ほど1つ目のポツで申し上げた、要するにまちは生き物だということです。

 これ、「都市有機体説」と言ってもいいでしょう。

 普通一般的な社会学では社会有機体説と言いますけれど───都市は生き物なんです。パトリック・ゲデスがそう言ったように、都市は生き物なんです───。

 生き物だとすると、その生き物というのは元気になったり、健康になったり、不健康なになったり、病気になったり、場合によっちゃ、死んでしもうたりとかするわけです。

 シャッター街なんていうのは死んでいるわけです。もう死んでしもうたみたいな───。

 シャッター街化しているのも、これも死にかけていて、もう郊外化して町中が駄目になって、これはもう病んでいるわけであります。

 それで、よく言うヨーロッパの町中のにぎわいがあります。あれは健康な、ものすごく元気な、ほおがちょっと赤いぐらいの、ちょっと小太りいうか、何かこう健康的な状況になっているわけです。

 まちづくりとか都市計画というのを理解するときに、あれは生き物なんだと。

 「生き物みたいなもんだ」じゃないんです、「生き物なんだと」思うことが大事なんです。

 「生き物なんだと思うこと」、だから、そのまちに対して敬意を表することが必要です、人間に対して敬意を表することが必要であるように。だから、まちづくりとかやる人間は、そのまちに対して「畏怖の念」を持たないといけないわけです。

 おれが計画してやるぜとは絶対思っちゃ駄目なんです。それは、おれが子供の人格作り替えてやるぜと言うのと一緒です。

 それやるのは麻原彰晃、洗脳野郎と一緒なわけです(笑)。

 それは、「おれがこのまちを作ったんぜぇ」「はぁ?作っていないやろおまえ!」、という傲慢な話です。

 「育てた」のはおまえかもしれませんけど、作ったのは「神様や」という話です。

 要するにまちというのは生き物ですから、生き物というのを作るのは、我々人間ではなくて神様なんです───宗教の話やないですよ、「比喩」で言ってるんですよ───ちなみにこういうところが日本人面倒くさいです(笑)。これ、外国やったらすっと、神様が作ったんです、ああ、そうそう、イエス、イエスとこうなるんです。で、日本も外人も、倫理構造、宗教構造は同じなんです、一緒なんですけれど、表現の仕方がちょっとちがうから、そういうところで何かちょっと難しくなるんです。だから、神学が持っているヨーロッパがうらやましいなって思います。いつもドイツ人なんかとディスカッションしていると、何時間でもディスカッションしている、キリストの話とかしているとごっつい楽しい。

 まぁ、それはさておき、だから、まちがあるのは、これはもう神様が作ったんです。

 だから、さらに言うと、ディベロップで郊外でニュータウンを「作った」としても、それは「作った」かもしれないけれど、そこで何かが動き出したら、それはもう既に神様が与えた「命」が、そのニュータウンに吹き込まれるわけです。それは人間ができた切っ掛けはお父さんとお母さんかもしれないが、その命は、お父さんとお母さんがつくりあげたものじゃない、ということと同じです。

 とにかくもう、何かこう、「まちは生き物なんだ!」とあっさり思いましょう。

 都市計画学会には、それを第1条に据えてほしいです。まあ、経済学者がいたら、こんな話頓挫するんですけれど(笑)。

 

 

公共交通は「まちとしての生き物」を元気付かせる

 さて、ということで、公共交通があると、ぎょうさん乗せてブワーンとこうエネルギーをまちの中に供給することができるんですね。

 そこで何かこう、ビフィズス菌みたいなもんです、公共交通作るっていうのは、ウワーンとこう何かヤクルトを飲んでいるようなものです、公共交通でブワーンと来たら。

 それで、ワーッとにぎやかになるわけですよ、それで、何かごっつい元気になっていく。

 来はった人は、お金は使うわ、話し合いはするわ、友達はできるわ、男女の交際は始まるわ、家族はできるわ、人と人が会うことで───人間というのは不思議なもので、人の間と書くものですが、間が無かったらこれ、単なるヒトですからね、片仮名で書く、これ、アウストラロピテクスと一緒、ホモ・サピエンスと一緒ですから。人間というのはやっぱり、「会って」人間になるわけです。

 これ、「間人主義」と言って、間の人主義ってこう言うんですけれど、これ、京都学派がずっとこう言っている話ですけれど、ま、そういうのがあって、それで人間なので、そのためには、だから、ぎょうさん人が供給されないと駄目です、狭いところにできるだけ。

 

 ────そうしたら、「車」じゃ駄目なんです。

 もう当たり前じゃないですか、そんなもの。

 だって、もう算数、アリスマティック的に出てきます、算数的に無理じゃないですか、車でぎょうさん運んでくるなんて────クルマの面積広いんですから。

 公共交通ワーッと来たら、人をよーさん運べるから、街はワーッとなるんです。

 もう新宿なんか、この間久しぶりに歩いたら、人の量がもう、えげつないですよね。「もうどないなってんねん、ここ」とか思いましたよ。兎に角、「よく私あそこで7年間も住んで、いつもここで通勤してたなぉ」と思うぐらい、人がきょうさんいますけど、あそこで、ものすごい新宿はもう何か、社会の、社会中のいろんなものがこう生まれているわけです。

 ものすごくある種の「活力」があるわけです。

 あそこ、新宿に活力があるのは、公共交通があるからです。

 あれ、みんな車で来ていたら、もうむちゃくちゃになっています。

 あれを車で通そうと思ったら100階建てぐらいの高速道路を造らなきゃ無理でしょう(笑)。しかも、それでも無理でしょう「駐車場」とか。

 あの新宿のJRの小田急に行くところの地下道の何ですか、あの人の量のエグさ、もうむちゃくちゃやないですか、もう。

 

 で、みんな車使うていたら、そこへ行かないですよ。

 みなクルマできたら、メチャメチャ混雑するの、わかってるわけですから。だから、必然的に車を使うとエントロピーが増大するみたいなもんで、郊外にみな、いくようになるんですよ。

 そうすると、そのまちの中に、エネルギーが、ビフィズス菌が来なくなってしまう訳です。

 そうして、まちは「駄目」になっていくんです。

 これはもう当たり前、です。ややこしいこと言わなくても、もう当たり前。だから、シャッター街化していくわけであります。

 

「生き物としてのまちを守りたい」と思うから、皆が、まちづくりに一生懸命になる

 さて、ここまではもう当たり前みたいな話であります。もう車をみんなモータリゼーションになったからつかいつづけているから、日本中の街々が傷ついていったわけです。

 私は何で公共交通利用促進を昔からやっているのか───10年ぐらい、モビリティ・マネジメントをやっているのか───それは今から思うと、柳田国男と同じような「むかつき」があったからだと思います。

 「ふざけるな、こら」と、「何つぶしとんねん、われ、おまえ」と。「モータリゼーションのせいでつぶれておるやないか、このまちが、おまえ、こら、あほんだら」と、ね。

 私はもう育ちが悪いですから、こういう言い方になってしまうんですけれど(笑)、多分今から思うと、柳田国男と同じような───というか、皆さんだってそうだと思います、そんな柳田国男と同じような思いがあって、皆さん仕事をされている。

 大学の先生も、本当そういう方、たくさんおられます。

 もう役所でもそういう方、たくさんおられるだろうし。

 とにかくもう、何か、「つぶすなよ、おまえ」ってこう腹立ってるわけです。

 

「戦艦大和」に見る悲哀と、「日本のクルマ」に見る悲哀

 とはいえ、自動車を全部ぶっつぶすと日本の近代国家というものがつぶれてしまうかもしれないという危惧もあるので、完全に自動車というものを排除するというのも、まあ、なかなか難しい。

 

 戦艦ヤマトじゃないですけれど、ヤマトっていうのもなかなかあれは面白いもんです。

 面白いっていうか、もともと「大和魂」というのは鉄の塊と無関係ですよね。「やむにやまれぬ大和魂」ってのは、あんなでっかい鉄の、2百何十メーターの鉄の塊とは関係ないんですが、この大和魂の、この国日本を救うため、あの鉄の塊、戦艦大和が必要だったんです。

 いやー、なかなか人間ちゅうのは悲しいもんです。

 で、まあ、破れていくわけであります。

 

 だから、あながち車無くして、とにかく自然に帰れと言うわけにもいかない、クルマを全部なくせ、っていうのは、これは、もう「ばか」みたいなところがあるわけです。

 ところが、大和だと言って、右翼みたいなのが、大和だ、大和だと言って、ふるさとなんか関係ない言うてワーッと踏みつぶしていくのも、これも「ばか」です。

 ですから、何というか、バランスをちゃんとやらにゃ、人間として何かおかしいというのは、もう言わずもがなです。

 

徹底的な「投資」がまちを救う

 さて、そうやって何かこうモータリゼーションなかりせば、まちというのはもっと活力あったことは、これ、もう100%間違いないんですが、モータリゼーションが来て、それぞれ全国のまちがつぶれていったんです。

 そして、大都会だけが生き残っていった。弱肉強食が進んだわけです。

 これ、何とかしたいと───街のその傷をいやすのはどうしたらいいかというと、その第一にすべきことは、それはもう簡単なことです、公共交通や都心部に投資する。

 最高の方法はもうどう考えてもこれです。

 東京が活力あるのは、ばかみたいに投資したからです。

 新幹線は4本も通すわ、またリニアも通すわ、それでもう駅の前もごっついのを投資する。それで、陛下のおられる場所もごっついきれいに整えるわ、もうそれで丸の内とか、めちゃめちゃええ路面の舗装をやるわ、もうそれで山手線も電車引くわ、もう小田急や、もう西部や、鉄道いっぱい投資するわ、もう投資しまくっとるわけです。

 空港もでっかいのを造るし、それでもう、何かいろんなことにうわーっと金をもう何十兆と使うとるわけです。

 そりゃ、人が集まりますよ───「集まらいでか」いうことですよ(これ、関西弁で、「そんなにお金入れて、集まらいでか」みたいな、「当たり前やないか」みたいな、っちゅうことです)。

 だからもう金使って───要するに、「世の中ねぇ、金ですわ、金」言うてね(笑)、そんなん言うたらまぁ、おかしいですけれども、要は、お金は本当に大事なんです。

 あっさり言えば、もうぎょうさんお金使うたらええんです。

 ところが、国交省の都市局の方も今日はおられると思いますけれども、国交省の中で都市局は大変、規模が小さい(笑)。

 これが最大の弱点ですね、日本の都市計画において。

 いや、もう都市局───例えば、「まち交」(まちづくり交付金)、それはまちづくりにしている人にしてみたら、「まち交」って大きいな言うて、国交省の方とか、自治体の方に「うん、まち交、やろうか」って偉そうな顔できるわけでありますけれど(笑)、実際のところ、まち交の金額なんて、いろんなインフラ投資全体のことを考えると、もう随分安いんです。

 例えば私、京都の理想的なまちづくりしたいなと思って、とある方ともしゃべっているときに、「ざっと計算すると、大体7,000億ぐらいですか」言うと、「まあ、ええとこやな、実際は8,000億やなっ」っていう話をしていました。

 >そりゃね、京都の町中8,000億あったら、ええ感じにできまっせ。

 街中、全部石畳にするんですよ。

 全部石畳にして、で、もう全部表通りの建物は町家にするんです。

 裏側はビルでいいです。

 何かベンガラ格子みたいな感じの通りのデザインにして、LRTも通して、LRTの車両も、何かあんまり近代的じゃないちょっとこう古い感じのベンガラ格子的な感じにしたりして───、そりゃ、8,000億あったら、電柱も全部地中化して、車とか全部追い出して、そのかわり車のために、その町中以外のところにはでっかい地下の駐車場も造ったって、場合によっちゃ、高速道路でそこをトンネルで地下までつないだってもいいです。また後3,000億ぐらい掛かりますけれど(笑)。

 金さえあったら、メチャクチャええことできるんですわ、これもうはっきり言うて。

 

今の政治環境、世論環境では、徹底的な「投資」がスグにできるとは思えない

 でも、まあ、今京都市はもう地下鉄のあれ、借金何ぼですか、何ぼやったかなぁ───忘れました、数百億だかの借金のせいで、もう市役所さん、議会でたたかれまくっているわけです。

 京都市は、「地下鉄の東西線」っていうのを造ったんですが、「あんなん無理してつくるから、財政逼迫しているじゃないか!、今の行政は何しているんだ!!」って。で、水面また「おう、そうだ、そうだ!!」とか言って、もうメチャクチャにたたかれてるわけです。

 ああ、かわいそう。8,000億なんて絶対出てこない。今のままだったらねぇ───。

 でもね、もしも京都というのを、日本国家の文化首都に位置づけて、国家プロジェクトとして京都に投資していこう───なんていう発想が、我が国に芽生えたとしたら、8000億という巨大な金額も、決して、メチャクチャな夢物語っていうわけではないと思うんですよ。

 例えば、「列島強靱化計画」という「国土計画」をやるんです。

 そいで、そのために国土庁を復活して、経済企画庁を復活して、もう一回、国土交通省を運輸省と建設省とに分けていく───そんな取り組みが大事だというのは、「財政を絞る」側の閣僚は、もう大蔵大臣1人です、「国土計画の財政の支出を求める側」は今、国交大臣1人しかいないんです。

 ところが昔は経企庁長官と国土庁長官と運輸大臣と、それから建設大臣、4人の閣僚と、大蔵大臣一人とでバランスがとれていたんです。しかも昔は、その背後には、絶大な国民の支持を受けていた角栄さんもいはったと。で、当時はもう、大蔵大臣1人で、そんな強大な「財政出動派」と戦いまくってたわけです。で、そんなせめぎ合いの中で、大蔵省というのは、めっちゃ強うなったわけです。なのに行政改革で、財政出動を求める側の閣僚が、「国交大臣一人」になってしもたと───もうそうなると、国交大臣一人では、大蔵大臣というか財務大臣一人と、戦うことはでけへんようになって、で、結局、日本は90年代後半から、徹底的な緊縮財政路線になってしもうたんです───。

 例えばです、例えば、そんな中で大蔵大臣をちゃんと説得をして、何とか国土計画をつくって、それを進める省庁再編もやって───みたいなことが全部出来て、もう針の穴を100万本通すぐらいの大成功を納めたら、まあ、出てきます、京都に8,000億ぐらい(笑)。

 でもまぁ、ほとんどそれは現実的に難しいですよね、それにこれ、できるとしても、まあ、10年ぐらい掛かるでしょうね、めっちゃ早うて。

 で、国土計画無視して、地方債の起債しても、何か夕張市さんみたいになってしまうとまた困るし───ということで、そんな大規模な投資なんて、100パー無理とは言わんでも、まぁ、無理でしょうねぇ。

 

「様々な規制」で、まちは活気づくが────それが出来ない理由

 で、まちを元気付ける2つ目の方法、これは、都市計画に「規制を掛ける」ということです。

 ええ街をつくるためにも、是非、そんな規制、掛けたいですねぇ。

 やりたい。やりたいなぁ───やりたいけど、これはアメリカの圧力でできないんです───残念───公取やとか何やとか───もうとにかく───。

 このバトルの相手は、究極的には「シカゴ」です。

 シカゴ学派(注:新古典派経済学に基づく新自由主義者)の方々です、代表者の名前を挙げたらフリードマンです。

 ご存じですかね?

 そういう方々が一杯います。

 日本の色んな学会の中にも、その末裔みたいなもの、そのフリードマンの孫の孫の孫のしっぽのしっぽの────言うのが、いっぱいうじゃうじゃいます(笑)。

 本当にもう彼等のせいで規制は駄目だ、フリーなトレンドがいいんだよと、なっちゃってるんですよねぇ───。

 でも、我々は「ちゃんと街をまもるために、規制掛けさせてちょーだい!車ぐらい、都心から追い出させてちょーだい!!」とか「“線”もっとがんがん引かせてくれよ」とか「税制とか、いろいろとやらせてくれよ」と思っているわけです。

 国交省の都市局の方々なんて、そんな風にして、長い長い間、ごっつい、そういう自由化路線の人々、いわば、シカゴ学派系の人々と戦ってきたんです、新自由主義者たちと。

 それで、まあ、ぼろ負けです(笑)。

 もうあんまりやられ過ぎてもう何かメチャクチャなりすぎたんで、最近ちょろっとだけ元に戻りましたけれど(=若干規制が強くなりましたけど)、それもう後の祭り。

 

 ホンマに腹立つぅ───何とか勝ちたいなぁ────。

 でもここを勝つにもね、要するに、公正取引委員会とか、何かそういうところと────これ法学部の方々が一杯いるんですが、もうそういう方々って、いわば「国家観」が無いんですよ───あ、ご出身の方、すみませんね、ほとんど全部というわけじゃないですよ、法学部上がりで特に偉い官庁に行った方々の中にそういう人がいる、っていうことですよ────ホンマ、彼等は、頭ええんですけど、国家観が無いんです───。

 

 柳田国男的な「慈悲炉」が無いんです。

 

 もう何か、もうね、官僚になったとき、「慈悲炉」の大きさを調べるテストを私は作りたいですね、ほんまやったら(笑)。

 例えば、柳田国男を読んで感動したかどうかとか───でもまぁ、そんな試験つくったら、多分あいつら、それ用の受験勉強してきて、感動したかのように見せるような顔の作り方とか、勉強してくるんでしょうね───もう、かなんなぁ───。だから、無理なんですね、この国を良くするのはもう残念ながら。

 ───ということで、2つめの「規制緩和」ってのは、結局難しい!───残念。

 

どんな状況でもできる「自主防衛」の方法───「暮らし方」を皆で変えること

 まぁもちろんね、やれるなら、やれればいいんですよ、1つ目の「徹底的投資」と2つ目の「適正な規制」は。

 だから、まあ、当方、一つめの徹底的な投資については、その合理性と実行可能性を客観データに基づいて論証した書籍を何冊か本を書いていますし(注:公共事業が日本を救う、列島強靭化論、等)、その考え方を国会をはじめとして色んなところで話をしてますし、二つめの「適正な規制」の問題も今、「コンプライアンスが日本を潰す」っていう本をかいて、これを出版する予定ですが───とはいえ、そんな本書いて潰されるんは、私やと思いますが(笑)───まあ、そういう地道な戦いをやってるわけで、で、まかり間違って(笑)、当方の目論みがうまくいけば、行けるかもしれませんけれど────それでもまぁ、最速でも何年もかかっちゃうでしょうね、万一、億が一、当方の目論みが成功したとしても。で、「不可能」「できない」っていう可能性も入れて平均で、何年後にそんな事ができるんかっていうのを考えると────冗談抜きで、2000年ぐらい掛かるでしょうね(笑)。なんとまぁ、面倒くさい話です。

 それでいくと、もう我々には、現実的に出来ることは、「第三の方法」つまり、「皆のライフスタイルを変える」っていうのしか、残されてないんです。

 

 何とも「しょぼい話」で申し訳ないんですが、もうこれしか、残ってないんです────もちろん、一番目も、二番目も、出来る範囲でちょっとずつやるのは絶対大事ですが、そんなんで出来ることが、メチャクチャ限られてるっていうのが、実態なんですね。

 だから、この第三の方法「皆のライフスタイルを変える」っていうのが、結局は、現実的に、一人一人の都市計画、まちづくりの関係者の間で、最も重要なものになってくるわけなんです。

 ────そこにクルマがある。そこに郊外のショッピングセンターがある。

 でも!

 もしみんなが町中で公共交通を使って買い物をする、そうすれば、そこにクルマがあろうが、郊外のショッピングセンターがあろうが、まちなかの賑わいは守られ続け、活気づいていくわけです。

 これは何といいますか、いわば、「自主防衛」といっていいでしょう。

 まちの自主防衛団みたいなイメージです。

 そうやってこう防衛をすると、大資本家が、我が町にどんだけやってこようが、どんだけど下らない規制緩和がやられてしまおうが、何とかそのまちを守っていくことができるんです。

 

イタリアの夜の街── 一つの、理想的なイメージ

 私のイメージは、これ、ほとんど不可能かもしれないですが、イタリアなんです。

 イタリアはね、もうあいつら、何かちょっと、よう分からんやつですけれども、とにかくわが村自慢とか、めっちゃ好きなわけです。

 もう私ね、どこだったか、どこの話か忘れましたけれど、もう、何かね、夜の11時ごろに着いたんです、イタリアの南のほうの街で。

 で、特に濃いコミュニティーのあるところです。

 そこに行ったら、何かそこの私を呼んでくれたプロフェッサーが、11時から、「それじゃ、ディナーを食べよう」っていうんです。

 「いいんですか、11時で」ってきくと

 「いいんだ、いいんだよ」というんです。

 前のメールでそんな事になったので、そんな夜おそう、かまへんのかなぁ、と思いながらいったんです。で、そんな夜おそく、まちなかには、もう人少ないだろうなと思って行ったらもうおっさん、おばはんが、めちゃめちゃ歩いているんですよ!

 子供は全然歩いていない。

 高校生とか大学生、あんな、そういうティーンエイジャーのくそガキどもは全然歩いていないわけです。

 おっさん、おばはんが、そこでもう何かうわーっと歩いておるんです。

 それで、何か若いのがおったなと思ったら、何か私のホストの教授のところに、ハアハア、やってきて、で、これ、「聡さんにこれ渡して」って、なんか、ボクのところに持ってきたんです。

 つまり、小間使いだったんですね。夜の街の中でおるティーンエイジャーは。小間使いで走ってくるだけ。

 とにかく、めちゃめちゃもう、大人が、夜の街の中で遊ぶんです。

 これ、平日ですよ。

 みんな、何か今日ちょっと芝居見てきたんやとかって、夫婦で芝居へ行っていたらしいです。

 彼らはものすごい、めちゃ車だって使うんです。その教授が運転するクルマでボク、送り迎えしてもらってましたから。

 それでもやっぱり街の中で、ごっつい歩いとるんです、平日の夜に。

 で、また昼飯も3時間ぐらい食いよるんですね。ワインも昼真っ赤等めっちゃ飲んで───もうええ感じやなぁと思うわけです。

 

ゲリラ戦でもいい────諦めなければ、まちづくりは終わらない

 ────これが、私のイメージするモビリティ・マネジメント───皆の暮らしぶり、ライフスタイルを変えて、まちを元気にしていくマネジメント施策───の最終形です(笑)。

 みんながそうしたらいいんです。クルマつこたって、郊外に住んだっていいんですが、そんなことはさておいて、兎に角、街中にみんな集まってゆっくり過ごすようにする────これなんです。

 そうやるのには何が必要かというと、一番最初に申し上げた、その街の中にある、何ていうか「エネルギー」があるはずなんです、その「エネルギー」が絶対的に重要です。

 例えば城下町とか、門前町とか、何かね、そういう歴史のある場所には、なんかそのまちの根底に、マグマみたいなエネルギーが、たまってると思うんですよ、で、そのエネルギーをうまいこと引き出したら、そのまちは、めっちゃ元気になるんですよ、絶対に。それは、例えば柳田国男のやったような、ああいう取り組みをやると、人が集まってきやしないかなと───そう思うんです。

 もう公共の投資の話とか、規制の強化の話とか、それを阻んでる色んな人が、この日本のなかも、外国のなかにもいて、そいで、そいつらが、いやらしいことに結託して、地方のための公共の投資もできひんようになって、地方のまちをまもる色んな規制も撤廃させられて────で、そなんことののしわが全部、ちっこい町にきてしまっているんですね。

 だから、そことどう「戦うか」というときに、いろんな戦い方があるんですけれど、残念ながら3つ目の「皆のライフスタイルを変える」っていう、言うて見たら、ゲリラ戦みたいな格好で戦うろぐらいしかもう残されていないということもないですね。

 いわばそれは、パリのレジスタンスです。

 地下に潜ってやっていた絵があったじゃないですか、昔第二次大戦のときに。

 何かドイツが来て、わーっと地上戦で、でっかい戦車でわーっとしておりますけれども、それで、地下に潜って地下組織を作って、それで、時々出ていってバーンと鉄砲を撃つんですよ。ウーとか、1人ぐらい殺して、また地下へ潜って、ずうっと粘り強く、粘り強くパリ魂をやっていて、それで戦っていくんです。

 私のイメージは、そうやっておいて、後で連合軍がノルマンディー作戦でやってきて、それで、その敵方の銃器を全部一掃してくれるわけですよ。そのノルマンディ上陸作戦に該当するのが、国土強靱化計画、国土強靱化、列島強靱化論なんですよ。

 ぜひ、ですから、やっぱり1つ目の「投資」、2つ目の「規制」というのは絶対必要なんですけれど、今はとにかく死なないことが大事です。

 その町をもうとにかく息を続かすことが大事で、そのためには、まあ、ゲリラ戦も辞さずと。

 そして、これからお話しいただく加藤先生とか、竹内傳史先生がいろいろなノウハウをお持ちなんで、そういうノウハウをいろいろと導入して、何とかこの厳しい、厳しい戦いを戦い抜いて死なないようにしていただいて、その家殺し、町殺し、村殺し、そういうことにならないように一生懸命頑張っていただいて、そのうち神風じゃないですけれども、ノルマンディー作戦に成功した大きな部隊がやってきたときに、ちゃんと地方が、田舎がよみがえると、そうなったらいいなと思います。

 ぜひ皆さん頑張っていただくように!残念ながら、このパワーポイントの情報を使うことなく、私の話は終わってしまいましたけれども、またごらんいただきますと、コミュニケーションだけで2万人ぐらい公共交通の利用者が増えると。利用者のコミュニケーションを図るだけで3%か4%か、ちょっと忘れましたけれど、4%お客さんが増えたという事例が富山でありますから、ぜひそんなものも参考にしながらゲリラ戦の戦い方をいろいろと頑張っていただきたいと思います。

 ありがとうございました。