藤井聡:さや侍  ~現代日本人に彼を嗤う資格など無い~

全国商工新聞,平成24年7月23日号,『随想』

さや侍  ~現代日本人に彼を嗤う資格など無い~ 

 

京都大学大学院教授・同大学レジリエンス研究ユニット長 藤井聡

 

松本人志の映画は(海外は別として)日本国内の評判は必ずしも芳しいとは言えない。筆者はその様子を見るにつけ、一日本国民として松本人志に何となく申し訳ない気分になってしまう。例えばかつての彼の映画「大日本人」「しんぼる」の評判をネットでざっと見てみたところ、僭越ながら筆者が深く共感出来るような評価はほとんどなかった。「コメディアンごときが作った映画だ」「たけしの二番煎じだ」とかいった詰まらない先入観に塗(まみ)れたものか、あるいは凡庸としかいいようの無いものが大半であった。

三作目の映画「さや侍」もまた、そのあたりの事情に大きな変化は見られなかったように思う。

これは追っ手から逃げ回る一人の侍の物語だ。この侍、侍とは名ばかりで、刀を捨て「さや」だけもって逃げ回っているという全くのダメ侍だ。だから映画全編に渡ってどうしようもなく情けない姿を延々と曝(さら)し続ける。

しかし彼は最後に「さやだけは捨てずに持ち続けた」ことが象徴する最後の最後の「武士の誇り」を、凄まじい鬼の気迫でもって「大衆」に見せつけ、果てる。

筆者は思う。

今や多くの日本男児が、ちょうどこの侍が情けない姿を曝し続けたように誇りをほぼ完璧に無くしてしまった。しかし我々は未だ「さや」くらいは持っているのか、そして、いざという時に鬼の気迫の下その誇りを見せつけることができるのか──。

この映画に対して凡庸な評価をしか下せぬ者は、刀どころか、さやすらも既に無くしたのだろう。そういう者は、さや侍を嘲笑する暇があるなら、まずは失った「さや」を脇に刺すところからはじめねばならぬだろう。なぜならそれができる日本男児が一人でも二人でも増え、望むらくは彼等がそのさやに刀を納めることあらば、その会社も地域も国も凄まじく発展する契機を得ることができるに違いないからである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です