藤井聡:まちづくりと「歴史と伝統」

金沢LRTだより(Vol.6)、2012.

まちづくりの思想(5)

まちづくりと「歴史と伝統」 

京都大学大学院教授 藤井聡


まちづくりを志すにおいて,何よりも大切なものの一つが,「歴史と伝統」だ.そこにどの様な歴史や伝統があったのか,それを踏まえることこそが,まちづくりを志す上での全ての基本となるものだ.例えば,そこに江戸時代や平安時代から引き継がれ,風化せずに残された街並みをとにかく壊さず,それを使って現代風の住まいにしたりカフェにしたりしながら,皆が楽しめる空間をつくるのが,よいまちづくりで,そんなものを全てぶっ壊しながら,その時の流行廃りで新しいものをつくってしまうのは,わるいまちづくりだ,だから,まちづくりでは歴史や伝統を大切にするのが大事なんだ────こんな風に言われるわけである.

しかし,こういう「セリフ」は,既に多くのまちづくりに興味関心を抱く日本人の間で共有されているものであって,今更繰り返すまでもないものであろう.つまりそれはむしろ「陳腐」とも言いうる様な言説であるかも知れない.

ただしそのセリフが仮に「陳腐」であったとしても,「歴史と伝統」と言う言葉に秘められた,空恐ろしいとも言い得るような凄まじきもの感得しながら,「まちづくりには歴史と伝統は大事だ」という言葉を吐き,耳にしている人々は必ずしも多いわけではないのではなかろうか.

例えば,歴史と伝統がまちづくりに大切であったとするなら,歴史も伝統もない,10年や20年前に造成されたニュータウンでは,まちづくりは不能だと言うことになってしまいかねないではないか.

しかし,(おそらくは多くの人々が直観しているように)そんなことは決してない.

仮に今年できあがったニュータウンに入居した人々だって,まちづくりをはじめることができるのである.

例えば,戦前につくられたハリウッド映画を代表する古典の大作「風と共に去りぬ」のラストシーンは,南北戦争期のアメリカで,歴史の荒波に翻弄されたスカーレット・オハラが,彼女が生まれ育った地に戻り,そこで生き続けていくことを「誓う」というものだ.言うまでもなく,その「大地」には,日本やヨーロッパのような伝統的なまちなみがあるわけではない.そこはむしろ荒れた大地だ.だからこそ,そこに根を張り,生き抜いていくためには,文字通りの「まちづくり」が求められるのであって,その意味に於いて,彼女のその誓いは,そんな「まちづくり」に直結するものだと言うことができるだろう.

だとすると,まちづくりには「江戸時代に作られた城下町」なり「平安時代からつづく門前町」などは不要などころか,「昭和時代につくられた駅前商店街」ですら必ずしも求められてなどいないということを見て取ることができるのではなかろうか.むしろ,そんな江戸時代や平安時代につくられた土地で行われる「まちづくり」は,字義通りの「まちづくり」なんかではないと言いうる程だろう.何しろそこには,既に先人達が,それこそ「歴史」の中でつくりあげた「伝統」的なまちがあるのだから,字義通りの「まち」「づくり」などではないとすら言えるわけである.

では,スカーレット・オハラが為すまちづくりには「歴史と伝統」など不要だったのだろうか───?

否,決してそうではない.

考えてみて欲しい.そもそもそのまちづくりは,スカーレット・オハラという人物によって織りなされるものだ.そして,その人物は,決して,西部の荒野で突如として生まれたものなんかでは決してない.荒野を切り開き,大地に根を張らんとしたそんな彼女の「精神」は,ヨーロッパからアメリカ大陸へと大西洋を渡った人々から直接引き継がれたものなのであり,その彼女の「精神」そのものが「伝統的なるもの」なのである.

さて,そんな彼女に伝統的に引き継がれた精神は,よくよく考えてみれば,決して生やさしいものなんかではない,ということが見えてくる.

住み慣れた欧州,様々な問題がありながらも最低限のインフラも社会制度も整えられた欧州を離れ,何が待ち受けているのか分からぬアメリカ大陸に渡らんとする精神の内には,我が身が滅び去ることもあるだろうとの予感があったに違いない.そして,そんな予感を十二分に感得しながらも新天地,フロンティアの向こうにあるやもしれぬ「希望」に身を委ね太平洋を渡らんとするという精神は,ある種の「狂気」を宿すものであったとすら言うことができるだろう.

そしてそんな彼女の身の内に伝統的に引き継がれた,この身が滅び去るやも知れぬと言う予感,そしてそれを押しても太平洋をわたらんとするある種の狂気をも包含するような精神そのものの起源は,かのヨーロッパの大地で培われたヨーロッパ文明にあることは間違いない.

そしてさらに言うなら,そんな「狂気」の全てを引き受けつつ,新しい「大地」で再び自らの生の営みを始めんとする「力強い覚悟」もまた,ヨーロッパを起源とし,そして彼女に引き継がれた精神を起源とするものなのだ.

つまりは,こうした「歴史と伝統」のなかで引き継がれた精神こそが,彼女が西部の荒野の中で為さんとする「まちづくり」の全ての契機であり起源なのだ.いわば,ヴィヴィアン・リー扮するスカーレット・オハラの瞳に宿るあの「力」は,ヨーロッパの地で培われ,太平洋を渡り,アメリカ大陸の東海岸から西部へと運ばれた「精神」から析出するものに他ならないものなのであり,その「力」こそが,何もない西部の荒野の中にまちをつくりあげる全ての源に他ならないのである.

こうした事を考えてみるなら,「まちづくりには,歴史と伝統が重要だ」なるセリフに込められた真意は,決して,建物や街並みなどの歴史的,伝統的なモノ(=物質)を大切にしましょう,というような小学生でも口にしそうな生やさしいものなんかでは無いということが,ありありと見て取れることとなろう.

もしもそんな「モノ」に意味があるとするなら,そんなモノに様々な意味で触れることを通して,その「モノ」をつくり,それを使い,守ってきた人々の「精神」に陰に陽に触れることを可能とさせ得るという「一点」にのみあるのだ.そして,そうしたモノに触れることを通して「感得」,あるいは「伝染」してしまった「精神」に基づいて,さながらスカーレット・オハラが「荒野という状況」の中でまちをつくらんと決意したように,様々な「伝統的な建造物や街並みがあるという状況」の中で,まちをつくらんとしていくこととなるのだ.

そうした「与えられた状況」の中で織りなされる「精神的活動」こそが「まちづくり」なのであって,一切の精神性を排除した上でただただ技術的に繰り返される,さながら博物館で歴史的伝統的な物質を保存し続けるような行為は,「歴史と伝統に裏打ちされたまちづくり」なんかでは,絶対にないのである.歴史と伝統とは,狂気すら胚胎しうる精神と呼ばれるもの相似をなすもの,あるいはさらに言うなら,そんな精神そのものとも言いうるものなのである.

いずれしても,精神という空恐ろしいものは,どの様に表現しようとも,決して筆舌には尽くせぬものだ.しかし,その筆舌に尽くせぬものを,そのこころで十全に(そして時に当たり前の様にして)感得しえた者だけが,「まちづくり」を織りなす栄誉に預かることができるのである.

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