「人」のためにこそ、「人からコンクリート」への転換を

日刊建設工業新聞 所論緒論2010年5月17日

「人」のためにこそ、「人からコンクリート」への転換を 


京都大学 藤井 聡


民主党政権の支持率の急落は著しい。政権交代直後のあの人気振りがまるでウソのような人気の低迷振りだ。

しかしだからといって、地方主権や事業仕分けなどの「政策方針」そのものが批判されているわけではない。むしろ、それらが「実現できていない」からこそ人気が低迷しているのだ。

そして言うまでもなく、「コンクリートから人へ」という政策方針もまた、国民世論の支持を得ている。事実、「コンクリート」に関わる数多くの特殊法人が、事業仕分けのやり玉に挙げられている。

ここに、「コンクリートから人へ」というスローガンは、言葉としては曖昧だが、その内実はほぼ純粋に「財政の方針」を意味している。つまりそれは、「コンクリート」に関わる「公共事業費」を削減し、「人」に直接関わる「社会保障費」を増強する財政方針である。

しかし「コンクリートから人へ」の財政方針は、結局は「人」に対して甚大なる害悪をもたらす、ということを、我々国民は知らねばならない。

第一に、公共事業関係費を削減すると、十分な維持管理費を捻出できず、結果的に、舗装が不十分になったり、上下水道が古いまま放置されたりして結局は「人」が不利益を被る。そして、最悪の場合、橋が落ちれば「人」の命が失われる。あるいは、治水、耐震が不十分であれば、地震や洪水の時の「人」の生命と財産が奪われる。例えば、利根川が大型台風下で決壊すれば、何十兆円という経済損失と、何千人という人命が失われることすらあり得るのだ。

さらには、「社会保障」よりも「公共事業」の方が、圧倒的に「雇用創出」や「国民所得の向上」の効果が高い、という点も我々は知らねばならない。公共事業に従事する人々は社会保障に従事する人々よりも圧倒的に多いからだ。だから、「人」の雇用と所得のためには、子ども手当の様な社会保障よりも、「コンクリート」への財政出動の方が圧倒的に効果的なのである。

もちろん、所得が低い階層に対する保障や失業者に対する社会保障も大切だ。しかしそれよりもむしろ、そもそも社会保障をせざるを得ない状況を避けることが重要なのだ。例えば、失業率が低下し、自分の力で飯が食える国民が増えれば、失業手当が減少し、必要とされる社会保障費そのものが削減される。あるいは、所得が例え一部においてでも増進すれば、彼らの様々な場面での消費を促し(乗数効果によって)巡り巡って国民全体の所得の増進に寄与し、生活保障額そのものの低減をもたらす。

だからこそ、過剰に公共事業費が削減され、失業率が向上し、国民所得が低下している現在では、「人」の雇用と所得のために「コンクリートから人へ」ならぬ、「人からコンクリートへ」の財政方針が求められているのである。

無論、大方の経済学者は、こうした主張に対して「公共事業を行っても、それは民業や民需の圧迫(クラウディング・アウト)が起こるだけだからそんな主張はナンセンスだ」と一笑に付すだろう。

しかし、彼らは「今の日本経済が、民業や民需が、財政出動に圧迫される程の活力を持たないデフレ経済である」、という事実を忘れているのだ。そんな現代に求められているのは、民需不足を埋める「官需」(財政出動)なのであり、民業と民需を活性化せしめる「公共事業」なのである。

もちろん、首尾良く、そんな「公共事業」が功を奏し、経済がインフレ基調になった瞬間には、民業・民需の圧迫を避けるべく、必要とされる公共事業とは何かを十分に議論しながらも公共事業を削減基調にすればいい。さらに必要とあらば、その時に、過度に公共事業に依存するような経済産業構造の転換を図ればいいのだ。

つまり、なすべき事と真逆の方針を掲げる今の日本政府は、巨大な政策的過ちを犯しているのである。

一人でも多くの知性有る国民や官僚、政治家が、この重大な事実を知らねばならない。

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