「民主主義の暴走」をくい止めよ

日刊建設工業新聞 所論緒論2009年 6月10日

「民主主義の暴走」をくい止めよ


藤井 聡


日本の現政権の中心政党の名称は「民主党」であるが、この言葉の意味を考えたことのある読者はどれくらいおられるのだろうか。

そもそも「党」というのは、英語で言うところのパーティ、つまり、人々の集団である。だから、「民主」ということを政治思想の根幹に置く「人々の集団」、これが「民主党」という名称の意味である。

「民主」とは言うまでもなく、「民主主義」の「民主」である.

そして民主主義とは、「人民」に「主権あり」と考える主義である。つまり、「主権在民」を旨とする政治思想、それが、「民主」と言う言葉の意味である。

したがって,民主,あるいは,民主主義という言葉を理解するためには、結局は「主権」とは何か、を理解しなければならない。

ところが今日,この「主権」という言葉が,十分に一般の国民に理解されているようには到底思えない.もしもそれが十全に理解されているのなら,「主権在民」なり「地域主権」なりといった言葉が,軽々しく使われることはなかろうと思われるからだ.

さてこの「主権」という言葉であるが,これは英語の「サブリン・パワー」なる言葉を訳したものであるが,これを直訳すると「最高の権力」と言う意味である。「最高の権力」というからには、それに勝る者は何もない、ということである.だから人民に主権ありと考える民主主義とは、「政治的に人民に勝るものは、何もない、人民にこそが最高の権力者なのだ」と考える政治思想である。

そう考えると、誠にあっぱれ、現在日本の政治は、ほぼ完璧な「民主主義」だということが分かる。

かつては、「政治家たるもの、世論の人気を横目で気にしながらも、一般大衆が普段考えないような大所高所からものごとを考えるべし」、という常識があり,政治家は実際にその様に振る舞い、かつ、そんな政治家が人気を博していた。しかし、その様な常識を持つ人々は減少の一途を辿り、多くの政治家において「人民の人気」を得る事それ自体を目的とする傾向が相当な水準にまで高まってしまった。今や,大衆に直接訴えかけるテレビのニュースキャスターの方が、政治家よりも「実質的な権力」を握っていると言っても過言ではない。

国家官僚にも、かつては,全ての諸外国と同様に日本においても強大な国家権力である「行政権」が付与されていた.しかし、国家官僚に対する世論からのバッシングは激しく、「政治主導」のスローガンの下、「人民の人気取り」に奔走する政治家によって官僚達の自由な裁量が縮退され続けている.

つまり、日本においては、「立法府」も「行政府」も、「人民」の軍門にほぼ下ったのである。

そしてそんな民主主義の「暴走」を止められるのは,国内ならぬ国外の「アメリカ」くらいしかいない,という何とも情けない国になり下がってしまった(普天間問題が鳩山首相の退陣直接的原因となったと言う事実は,実はそれを暗示しているのだ).

すなわち,我々が,戦後半世紀以上に渡って「民主主義」なるものがなにがしら「善きもの」と信じて疑わずに、無邪気にも無責任にも軽々しく「ミンシュ,ミンシュ」と口にし続けてきたことのツケが回ってきたのである。

しかし,民主主義そのものが「善きもの」であったり「悪しきもの」であったりするはずがない。

あるとするなら,それは「良い民主主義」と「悪い民主主義」とがあるだけなのだ。「善き人民」が織りなす民主主義のみが善き政治をもたらし、「善からぬ人民」は愚かな悪しき政治をしか実現できない.

だからこそわれわれは,「民主」そのものを善きものとする愚を避け,「善き庶民であり善き国民たろう」とする努力をこそ重ねなければならない.その努力無くして,ここまで野放しにされ続けてきた「民主主義の暴走」を,自分自身の力でくい止めることなど,未来永劫できるはずもないのである.

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