東京物語~戦わんとせず、ただ観賞するべからず~

全国商工新聞「随想」8月27日号

東京物語  ~戦わんとせず、ただ観賞するべからず~ 

 

京都大学大学院教授・同大学レジリエンス研究ユニット長 藤井聡

 

小津安二郎監督の世界的に著名な代表作「東京物語」。終戦直後のこの映画の時代背景も文字通り敗戦直後であった。

───尾道に暮らす老夫婦が、子供達が暮らす東京を訪れる。三人の子の内、末の息子は戦死、残りの二人は生き残り、それぞれ家庭を築き東京で「立派」に暮らしている。老夫婦はそんな彼等を訪れるのだが、都会で忙しく働く二人の子度達家族は、両親を田舎からやってきた邪魔者の様に邪険に扱う。そんな両親を繊細な気遣いで思い遣るのが、戦死した息子の妻、つまり(原節子扮する)未亡人の嫁であった。

映画では戦死したその息子は描かれない。しかし、原節子が大切にする生前の写真一枚から、原節子と同質の繊細な思い遣りを持つ者であることがひしひしと伝わる───。

かくしてこの映画は、兄と姉の振る舞いや彼等が住まう東京的なるものが、老夫婦、原節子と尾道、そして戦死した末の息子に宿る日本的なるものを汚し、滅ぼしていく様を描かんとするものだったのである。

だから筆者はいつも、若い学生にはこの映画を薦めている。我々が拭いがたく自らの身体と精神の内に持つ日本的なるものが今まさに滅びつつあることを知ることは、現代日本人の「責務」だと筆者は確信しているからだ。

しかし、敗戦から60年以上も経過した今、敗戦直後の東京物語をただただ観賞しているだけでは、我々の時間は氷結したままとなるだろう。そもそも東京物語では、戦うべき「末の息子」は他界していた。ところが今の時代を生きる我々はもう既に戦える大人になっているではないか。東京物語をただ観賞し続けるとするなら、それは「戦えぬ」と断じているに等しいのだ。

我々はこの映画で描かれた東京的なるものが日本的なるものを滅ぼさんとしている事実を知らねばならぬ。そしてその上でその流れと戦わんとする姿勢を持たねばならぬのである。

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