人間の“光”と“闇”を肯定する精神の力量を持つべし

日刊建設工業新聞 所論緒論2010年 4月14日

 

人間の“光”と“闇”を肯定する精神の力量を持つべし

 

京都大学大学院・都市社会工学専攻教授 藤井 聡

 

軍隊なんか世界中から無くなればいいし、核兵器も根絶されればいい。国同士がいがみ合うのではなく、全ての国が全ての外国を“友”として“愛”すればいい。世界中の国々の国土は、それぞれの国民が占有するのではなく世界中の人々が仲良く共有すれば良い———。

外交の局面で“友愛”を掲げ、“日本の国土は日本人だけのものではない”と言ってのける政治家が首相を務める現政権に、万が一にも政治思想と呼ぶべき様なものがあるとするなら、恐らくはこうした種類のものであろう。

もちろん、現政権のみならず歴代の自民党政権においても、こうした考え方が存在していたことは間違いない。そもそも、“第九条”に象徴されるように、我が国の現憲法の思想の重要な柱は、こういうものだからである。だからこそ、多くの日本人は、昭和の時代にジョンレノンの “Imagine all the people live in love and peace” (全ての人々が愛と平和の中で暮らしている姿を想像してご覧)という舶来の歌を愛していたのである。

とはいえ、実を言うと昭和の日本の大人達にとっては、こうした “love and peace”の思想は“タテマエ”の議論でしかなかった。

確かに平和がいいし、みんな仲良く差別も何もない方がいいに決まっているとは思いつつ、口先だけでそれだけ言い続けても戦争も差別も無くなりはしないのだということは誰もがよく分かっていた。そういう認識が“国民合意”として存在していた時代、それこそが“昭和”という時代であった。つまり、“タテマエ”とは別に“ホンネ”なるものがあるということを、口にはせずとも誰もが知っていたのである。だからこそ、邦画においては任侠映画が、洋画においては例えばマフィアを描いた“ゴッドファーザー”が庶民の人気を博していたのである。それらの映画はタテマエの重要性を十二分に理解しながらも、その裏にある人間の闇の部分を描き出すものであった。“光”と“闇”を飲み込む存在として描かれる“人間”の姿に、昭和の大人達は心を動かされたのである。そして、闇にはびこる悪に嫌悪を抱きつつも、その闇があるからこそ保守される光があるというこの世の不如意を心と体で理解するが故に、その闇に対して敬意をすら密かに抱いていたのである。だからこそ昭和の大人達は、例えば非核三原則をタテマエで言いながらも核の持ち込みをホンネの中で黙して是認していたのであった。

もちろん、ホンネとタテマエの乖離を手放しで喜ぶ訳にはいかない。その両者の矛盾にどのように落とし前を付けつつ、少しでも秩序ある公正で活力ある善き状態をどのように目指していくのか———、これこそが人間の生の営みの本質であろうし、それを社会全体で追い求める営みこそが“政治”というものである。しかし、現首相が臆面もなく公言する“友愛”の精神には、そうした人間理解における深みというものが一切感じられないのは筆者だけではなかろう。いわば、人間という清濁併せ持つどうしようも無い存在が、無味無臭の“タテマエ”だけで幸せに生きていけるのだという軽薄きわまりない誤解が、その“友愛の精神”なるものの中に明確に胚胎しているのである。

そんな誤解をする人間を、我々は少し前まで“子ども”と呼んで相手にすらしなかったはずである。ところがこの平成の日本は、あろうことかそんな“子ども”を首相にまで仕立て上げてしまった。それは無論、有権者の大半が“子ども”化したことの帰結である。そうである以上、この深刻な事態を幾ばくかでも改善することを目指すのなら、我こそは有権者なりと傲慢に主張する以前に、一人の円熟した大人たるべく真面目に自らの生を生きることを目指さねばならぬのではなかろうか。

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