藤井聡:「デフレ脱却」こそが各種都市問題の「抜本的な処方箋」である,「最新技術のイノベーションと課題 -技術の進化と深化-」(印刷中)より抜粋

「最新技術のイノベーションと課題 -技術の進化と深化-」(印刷中)より抜粋

「デフレ脱却」こそが各種都市問題の「抜本的な処方箋」である

 

京都大学大学院 都市社会工学専攻 藤井聡

 

 「都市」とは「一定地域の政治・経済・文化の中核をなす人口の集中地域」(『広辞苑』)であり、「近代資本主義社会の勃興と共に発達して社会生活の中枢」となっている。現代の世界人口の約五割が都市部に居住し、日本においては、実に8割もの人々が(人口規模でおよそ3万人以上の)都市部に居住している。とりわけ日本においては、都市部の中でも東京、大阪、名古屋の三大都市圏への人口集中は激しく、この三つの都市圏だけで日本の人口の半数以上が居住している。その中でももちろん、東京都市圏(首都圏)への集中は顕著で、人口の実に三割弱もの人々が首都圏居住者である(首都圏が約3500万人、大阪圏が約2100万人、名古屋圏が約1100万人)。

 ただしここまでの人口集積は近年のことであって、江戸時代にはここまでの人口の偏在はなく、人々は均衡ある形で日本の国土の様々な地域に居住していた。それが明治維新以降、都市部に人々が集中するようになっていった。そしてその速度は戦後、一気に加速し、三大都市圏が過剰に肥大化することとなった。

図1に示すように、1973年のオイルショックまでの高度成長期には、東京圏、大阪圏、名古屋圏のいずれにおいても大きな転入超過が続いており、この間に、三大都市圏が今日のように過剰に集中する形で形成された。ただし、オイルショック以降の安定成長期に入ると、大阪圏、名古屋圏の人口の伸びが鈍化していく。しかも大阪圏は、30年以上にも渡って慢性的に人口転出していくという状況に至っている。これはいわゆる「大阪(関西)の地盤沈下」を意味している。しかし、東京圏だけは転入過剰の状態が続き、かつ、その転入過剰はさらに拡大していくこととなる。つまり、この関、三大都市圏の肥大化ではなく、東京の一人勝ち状態、すなわち、「東京一極集中」が進んでいく様子が分かる。

 ただし、バブル経済が膨らみ、未曾有の経済成長が果たされる期間にはその転入過剰も収まり、バブル崩壊時点では、三大都市圏への流入も、東京一極集中も一旦は収まることとなる。これは、日本中の好景気のために、大都市圏に流入せずとも、十分に地方都市でも仕事があり、必ずしも大都市に転出しなくても、誰もがやっていくことが出来たということを反映するものである。

 ところが、90年代中盤以降、日本が「デフレ不況」に突入して以降、再び、「都市への人口流入」が始まることとなる。東京への一極集中は再び加速していくと共に、30年以上も人口が転出し続けた大阪圏ですら、ほぼ転入と転出が拮抗する程度にまで都市部への人口流入が進むようになる(なお、名古屋圏は、2000年代後半はリーマンショックの煽りを受け、名古屋圏の主力産業である自動車産業の低迷により、転入者が減少している傾向が伺える)。

 以上は三大都市圏の人口の増減を述べたものだが、これと同様の動きが、日本中の全ての「都市部」と「地方部」の間で起きている。すなわち、「インフレの好況」が続けば、「弱肉強食」の傾向が弱まり、所得再分配が進み、必ずしもより大きな都市でなくても人々(ならびに各種法人)が生きていけるようになり、その結果、特定の都市部への集中は緩和され、人口は分散化されることとなる。一方で、インフレ好況が減速し、デフレ傾向が優越してくると、「弱肉強食」の傾向が強まり、所得再分配が進まなくなり、より大きな都市でなければ生き残れないという状況が訪れ、その結果、より大きな都市への人口の集中が始まるのである。以上はもちろん、都市部と地方部との間の人口流動の基本的な潮流であり、これ以外にも様々な人口流動の要因は挙げられるが、「デフレかインフレか」ということが、都市部と地方部(あるいは、より大きい都市とより小さい都市)との間の人口の社会移動を決定づける最も重要な要因となっていることは間違いない。

 それ故、15年にも及ぶデフレ不況の直中にいる我が国日本において、地方の過疎化と都市の過密化、東京一極集中と地方都市の疲弊といった諸問題を解決するための最も本質的な処方箋は、「デフレ脱却」なのである。


 migration

図1 三大都市圏の転入超過数

 

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